『ワンコイントゥモロー』 3
「今日のカレー。ちょっと焦がしちゃったの」
テレビを見ながら母さんは小さく言った。
「へえ。気がつかなかった」
だけど味覚音痴な俺にはさっぱりわからない。
「言われてみれば、香ばしさが増している気もするな。でも、美味しいぞ」
父さんも絶対分かっていないだろうけど、それをひっくるめて上手いこと母さんを褒める。
「ありがとう。吉江ちゃんから電話がかかってきちゃって、それに夢中になっちゃったの」
「吉江さんって、母さんの友人だっけ?」
俺が訊くと、「そう」と答える。
「高校時代からずっと付き合いがあるのよ。吉江ちゃんはすごいのよ。女で一つで娘二人を成人まで育てたんだから」
「それはすごいな。さぞ大変だっただろうな」
父さんも珍しく感心している。
「そうね。だから時々わたしが話し相手になっていたのよ。一人で抱え込むよりも、吐口があった方がいいでしょう」
「それもそうだな」
「そんな娘さんの一人、たしか正道と同い年の方の子が、何年か前に結婚して東京に出ていたんだけど、ここ最近で旦那と別れたらしいのよ。どうやら不倫されていたみたいで。それも二人の女性に手を出していたことが分かって、さすがに一緒には住めないから離れたんだって。でも、娘さんには四歳になる子供がいるのよ。だから吉江ちゃんが戻ってきなさいって言って、今は三代で暮らしているんだって」
つまり、親子揃ってシングルマザーの道を歩まざるを得なくなったわけか。俺は落とし所のない複雑な感情が胸の内に広がった。お茶を飲んでもカレーを食べても失せない。変な気分だった。
「そいつはえらい大変だ」
今日の父さんはいつもより感情豊かになっている気がする。理由は分かっている。俺の父もまた、女手一つで育ててもらった身であると前に聞いたことがある。きっと母の苦労を痛いくらいに分かっているのだろう。
「でも、吉江ちゃんは孫ができたって惚気ているくらいだから大丈夫よ。それに吉江ちゃんなら、絶対に大事にするから」
母さんの視線は再びテレビに向けられる。今は人気のお笑い芸人やアイドルがロケに行っているらしく、子供みたいにはしゃいでいる。
「上野だって。お父さん、懐かしいわね」
「ああ。昔はよく行ったな」
「正道が子供の頃も何度か行ったのよ。覚えてる?」
「まあ、ちょっとだけ」
薄らと首の長いキリンを見た記憶があったが、はっきりとは覚えていない。そのことを母さんに伝えると、
「それもそうよね。相当ちっちゃかったからね」
と笑った。
自室の布団に身体を潜らせて、俺は薄汚れた天井を眺めていた。何となく、あの動物園に行ってみたい衝動に駆られていた。どこからか、そこに行けと言われている気がする。動物園なんて随分と前に行ったきりで、ライオンの轟など久しく聞いていない。
偶然にも、明日は休みだった。俺は携帯で上野駅行きの電車賃と動物園の入場料を調べてみる。ここからなら三千円あれば余裕だった。
「久々に東京を散歩でもするか」
ピンク色の馬、はさすがにいないか。
俺は一人苦笑して、目を瞑った。
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