誰の家? (短編小説)



 クルクルと地球儀を回す夢を見た。はっきりとは覚えていないが、きっと目まぐるしく回転する社会にうんざりしていたのだろう。

 昨日は同僚と飲みに行って、上司の愚痴を言いながらアルコールを大量に摂取したと思う。明日は休みだからとつい調子に乗ってしまった。視界が遠のいていく感覚に襲われながら一人でタクシーに乗った記憶はある。

 だけどこのアパートに帰ってきてからの記憶が、忘却という名のダストシュートに投げ込まれてしまったことはたしかだった。だから朝日で目が覚めたとき、ここがどこか把握するにはちょっと時間がかかった。

 目を細めて窓際を見ると、カーテンのレールの部分に女性の下着がぶら下がっている。それに、先ほどから甘い匂いがプンプンしている。

「やっと起きたか」

 しかし、なぜか聞こえてくるのは野太い男の声だった。僕が完全に目を開けると、髭面で赤縁の眼鏡をかけた男が僕の顔を覗いている。

「え、誰?」

 僕は思わず疑問を口にしてしまう。

「それはこっちのセリフだよ。お前こそ誰だよ」

 その男はちょっぴり不機嫌そうに言うが、すぐに水を用意してくれる。

「ありがとう」

「しかし驚いたぜ。夜中にガチャってドアが開いてよ、酔っ払いの男が俺を無視してベッドにダイブするんだから」

「そうだったんですか。それは申し訳なかったです」

 おそらく、僕は間違って他の住人の家に侵入してしまったのだろう。

「気にするな。幸い吐かなかったから良かったよ。とりあえずゆっくりしていけよ」

「すいません」

 僕は注いでくれた水を一気に喉へ流し込む。スッと体内へと吸収され、キーンと胃が冷える。

「でも、僕が居て大丈夫なんですか? 彼女さんがいるみたいですけど」

 僕はピンク色をベースにした家具や先ほどの派手な下着たちを見回す。

「ああ、彼女のことなら心配ないよ。彼女は今友達と旅行に行っているんだ」

「そうなんですか」

 彼は先ほどから何かを探しているようで、しきりにキッチンの周りを彷徨いている。僕は妙に居心地の良いこの部屋でもう少し休むのも悪くないと思い、全身の怠さが抜けるまでくつろぐことにした。やがて彼はポテチを見つけ出してきて、それを開けて僕と一緒に食べた。

「俺、昔からずっと一途な性格なんだよね。例えば好きになっちゃった人がいたとして、その人を諦めきれずにずっと追いかけていたいって思うんだ」

「へえ、それは熱いですね」

「実はさ、今の彼女と初めて出会ったのが十年前なんだ。そこで俺は一目惚れをして、ずっと好きな想いを抱えて生きていた。それから九年の月日が経ったとき、このままじゃダメだって自分に言い聞かせて、思い切って彼女に告白をしたんだ」

「それで付き合えたんですね」

「あのときは本当に嬉しかったよ。まさに大願成就って感じだったな」

 つぶらな瞳で燃えるようなラブストーリーを語る彼に、僕は少し嫉妬さえしてしまった。誰かに対してここまで情熱を持つことができたら、僕も幸せだっただろうと思う。

 ガチャ。その音とともに、ドアが開いた。

「誰?」

 入ってきた女は、僕たちを見るなりガタガタと震え始め、「ねえ、誰なのよ!」と絶叫する。

「え?」

 僕は隣にいた彼をガン見してしまう。

「いや、これは……」

「え、あの方って、あなたの彼女ですよね?」

 僕は当然のことを訊くしかできない。だけど現実はそれを認めないようで、彼女は急いでスマートフォンで警察に電話をかけ始めている。先ほどまで愛を並べていた男は、下を俯いてダンマリを決めている。

「え、もしかしてあなたはここに住んでいないのですか?」

 知りたくもない事実を聞かざるを得ない状況に、僕は思わず吐きそうになる。

「警察を呼んだわ。一歩でも動いたら殺す。絶対に殺すから!」

 そう言って、彼女はキッチンから出刃包丁を持ち出して、僕たちに刃先を向ける。

「おい、あんたらは一体誰なんだよ!」

 すると彼は諦め切ったのか、天を見上げてライトに照らされる自分に笑って、全てを悟ったような表情で言った。

「俺はストーカーさ」

 これほどカッコよくないセリフを真面目な顔して吐かれても、僕も彼女も唖然とするしかなかった。

「ストーカー?」

「そうだよ。俺はずっとあなたのことが好きだった。でも俺みたいな男が告白しても絶対にフラれてしまう。だからずっと見守っていたんだ。そして昨日、旅行バッグを持って出かけていったあなたを見て、衝動的に家の鍵を壊して入ってしまったんだ。由奈ちゃん、俺はずっとあなたのことが好きだ」

 つまり、彼はずっと僕を騙して、彼氏ヅラして由奈さんの家に潜り込んだわけだ。僕はとんだ偶然に巻き込まれたらしい。だけど彼は最後に一つだけ誠を見せてくれた。

 彼の想いが詰まった告白は、彼にとってきっと大願成就だったに違いない。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?