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短編小説 『沙代莉のラジオ』 6

「金曜日の夜になると、ラジオを聞く前から君の少しだけ鼻にかかった声を思い出すようになった。自分でも驚いているよ」「それを聞いて、私は誇りに思えばいいの? それとも気持ち悪いと思えばいいの?」
「それはどっちでもいいよ。僕はただ、金曜日の夜を迎えると君の声がフラッシュバックしてくる現象を伝えたかったんだ。君のラジオは確実に僕の人生を彩っている」
「カラスくらい真っ黒に?」
「いいや、もう少し綺麗な色をしているよ」

 沙代莉はアメリカンコーヒーをカウンター席に置き、ほとんど手をつけていないそれを睨んでいた。僕はいつも通りアイスコーヒーとお冷やだけでこの空間に置かせてもらっている。

「先週、君は理想を描くためにラジオをやっていると言っていた。理想という言葉を突き詰めてみたけど、僕にとって理想はラブアンドピースだった。しかしそれは叶わぬ理想であって、だからこそ掲げていたい永遠の理想ともいえる。世界中で争いが起きている現代において、ラブアンドピースなんて言葉は店じまいした老舗の看板くらい空虚な存在になっているから。もちろん、手に届かないような架空の言葉を掲げているのは、現実主義者にとって愚かな行為であることくらい知っている。だけど、手に届かない願いならせめて理想として描くくらい許されるだろうと僕は思っている」

 そこまで話して口を閉じると、沙代莉は「結局、何が言いたいの?」と無理やり先に進もうとした。

「せっかちだね、沙代莉は」
「圭がまどろこしいんだよ。私は極めて単純な疑問をぶつけているだけ。もっとはっきり言ってよ」

 近くのテーブル席では女性二人が談笑している。別の席では学生らしき男性がパソコンを操作して何やら作業をしている。僕らと同じカウンター席の端に座り、新聞を読みながらホットコーヒーとサンドをつまむ古風なおじさんがいる。彼らは人生の中でどれだけの嘘を重ねてきただろうか。どれほどの理想を現実に変換できただろうか。風船みたいに見えなくなるまで飛んでしまった理想も数多くあるだろう。僕のラブアンドピースみたいに一人ではどうしようもできない理想は、自分のポケットにしまって大切に保管しておくほうが正しいかもしれない。 

 ただ、沙代莉の場合は違う。沙代莉の理想は叶えることが可能だからだ。

「沙代莉が嘘をつく理由について考えてみたんだ。僕は君が誰か他の人物を欺くために嘘をついているのだろうと考えた。ではいったい、誰を欺いているのだろうか。しばし考えたとき、僕は一人だけ思い当たる人物がいた」
「誰?」

 わざわざ沙代莉が問うから、僕は姿勢を正して、改めて沙代莉の揺れ動く黒い瞳を凝視して言った。

「沙代莉自身だよ。沙代莉は、自分自身を欺くためにラジオで嘘をついている。それはすなわち、自分を防衛するための行為とも言える」
「防衛ね。間違ってないよ。私は自分を守るためにラジオの世界で理想を語っているの。それを、あなたは嫌っているけど」
「先に言っておくけど、僕はその行為自体を間違いだとは言わない。だけど、沙代莉はいい加減自分の周りにある殻を破るべきだって思うんだ。沙代莉、君はもう大人だ。いつまでも過去の呪縛に囚われている必要はないだろう」

 呪縛。彼女が嘘をつく事実と、僕にとって明らかな真実。彼女が縛る黒い部分。僕が解き放ちたい沙代莉の過去。

「君は現実世界でも横浜に住むべきだよ。ラジオで君が楽しそうに話している世界を、どうして君は実現させようとしないの? それほど難しい話ではないだろう」

 しかし、現在沙代莉は三郷市のカフェでアメリカンコーヒーを飲んでいる。飛び出すこともなく、横浜から離れたこの場所に住み続けている。すなわち、僕が言っている言葉たちが虚無状態であることを示している。

「行きたくないの」
「それは、怖いから?」

 沙代莉はわかりやすい性格をしている。良くも悪くも、自分の意思を顔に出してくれる。僕はそれを汲み取る。

「沙代莉はとてつもない恐怖心を持っている。横浜に住むことを届かない憧れと考え、無理やりそれに近づこうとすると天罰が下るかもしれないとネガティブに考えてしまうから、横浜で生きる現実を描こうとすると、どうしても怖気づいてしまう。そんなところかな」「正確には、行けない、が正しいかもしれない。理想って、届かないから掲げるものなんだよ。届く理想は理想にはならない。手帳に書き記しておいて週末にでも叶えられる理想なんて、この世には存在しないの。それは予定って言うでしょう。でも、私にとって横浜はユートピアみたいな場所、つまり憧憬の対象なんだ」
「しかし、君は実際に横浜へ行って、住んで、その街の風を吸うことができる。僕はそう思っているけど、僕が想像する以上に君が抱える呪縛は濃色みたいだね」
「私は、横浜どころか三郷から出ることができないの。ちょっとだけ栄えていて、ちょっとだけ田舎で、ちょっとだけ便利で、ちょっとだけ不便で。千葉と東京と埼玉の境にあって、どこか曖昧な空気が漂うこの街は、とても居心地がいい。好きにも嫌いにもなれないからこそ、私はここに居続けることしかできない。離れることが怖くてたまらないの」

 沙代莉は汗をかくように垂れているグラスの水滴を二、三度なぞって、それをテーブルに引いた。テーブルについた微かな潤いは渇くこともなく、明確に彼女の冷たくなった理想を刻んでいた。

「たしかに、圭の言う通り横浜に住んで、実際にラジオで話している世界と同じようなことをしてみたいって気持ちはあるよ。大学に通いながら、友達とダイナーやバーに出かけたい。海を見ながら恋バナでもしたい。でも、私にはできない。そんな幸せのカテゴリー、私にはストックされていないから」
「しかし、妄想を現実に変えることはできる」
「あなたならね」

 あなたなら。すなわち、私にはできない。沙代莉の頭の中に蔓延する否定的な思考は、殻そのものだった。

「いずれは破壊される壁がある。そして再生すべき道がある」

 沙代莉、だけど君は籠る必要はない。僕はそれが言いたいだけだ。

「世の中は極めてカオスだ。過去に傷を負った君に僕がかけることができる慰めの言葉なんて、君からすれば大した重みもなく、綿毛くらい簡単に吹き飛んでしまうかもしれないね。だけど沙代莉、君はもう過去から解放されるべきなんだ。三郷という、君を壊した過去から」

 人間を身動きが取れない状況に陥れるもの、それは過去だ。僕らはいつだって過去に囚われている。脳は大事なことばかり消して、いらない過去ばかりを記録している。僕も沙代莉も含めて、例外はいない。

「はっきりとした存在になりたくない、沙代莉の気持ちも理解できるんだ。この街のように、どこに属しているのかわからない、都会でも田舎でもない、活気があるのか無いのか、殺風景なのか美景なのかすらはっきりしない三郷が住みやすいことも、僕だって知っている。だけど、おぼろげな現実と君の暗転した過去は切り離せる。いや、切り離さないといけない。そのために、君はこの街から出ていくべきだ。別に横浜じゃなくてもいい。とにかく君は君を縛る過去が転がっている三郷から逃げるべきだ」

 急に身体が熱くなってきて、僕はコーヒーを飲んだ。しかし大気熱によって氷が溶けてしまったコーヒーの味は曖昧で、甘くも苦くもない、中途半端な存在へと変化してしまった。沙代莉は、沙代莉だけはこれになってはいけない。

 しかし、沙代莉は頑なに首を横に振ることしかできない。唇を震わせて正面を見つめて固まる彼女の頬には、テーブルと垂直に熱いものが流れていた。

「ここから出たら、私は殺されちゃうかもしれないんだよ。過去からずっと追いかけてくる。歩いているの。歩けないはずの魂が、持てないはずの刃を握り締めて、無邪気な笑顔で私を切り裂こうとするの。お前は人殺しだ。だから幸せになっちゃいけないんだって」
「そんなこと……」

 僕が言葉を発する前に、沙代莉は小さく言った。

「中絶しちゃったから。身勝手な私のせいで、あの子は死んじゃったから」

 沙代莉はまた千円札を置いて去ろうとした。僕はそれを阻止した。

「僕は君の去り際が嫌いだ。なんだか、虚しくなる。それにこのコーヒーは五百円だ。安いけど美味しい。それがこのカフェの売りなんだよ。このカフェのプライドをへし折るような行為は許されない」
「それは失礼なことしたわね」

 僕の手に持っていた千円を沙代莉は掴み、綺麗に折って財布に戻した。

「ねえ、圭。昨日のラジオで話したエピソードに出てきたカップル、あれは過去の私と安藤くんだよ。あのときは本当に幸せだったんだよ。私のラジオ、全部が全部嘘じゃないんだよ」

 沙代莉は去って、僕は残った彼女のコーヒーを飲んだ。ガムシロップを二つ入れているせいで、思ったよりずっと甘くて、だけど後味は吐きたくなるほど苦かった。


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