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花の匂い『ミスチルが聴こえる』




 空っぽになった花瓶は、砂漠みたいに水気が無く干からびている。それ以外は、なんでもない毎日。
 僕は支度をして家を出る。電車に乗って会社へ行き、システムを作って再び電車に乗って帰宅する。夕飯はコンビニの弁当か、スーパーで買った惣菜。あるいは外食。たまにレトルトで済ます。テレビはないから、スマートフォンを使ってネットサーフィンをするか、YouTubeで動画を見る。猫がおもちゃで遊ぶだけの動画。外国人がボートで湖を横断するだけの動画。暇人が旅をするだけの動画。それらを見て、眠くなったらシャワーを浴びて眠る。ダブルベッドに一人、ピンク色の毛布をかけて。

 空っぽになった花瓶に、新しい花を差すことはない。僕は花が嫌いだ。美しさとともに、儚さを兼ねているから。人間の終末とそっくりだから。そして何より、美香を思い出してしまうから。
 
 美香は花というよりも、花の匂いが好きだった。毎朝花瓶の前に行って、花の匂いを嗅いでいた。
「花の匂いを嗅ぐと、お母さんを思い出すの」
「お母さん?」
「そう。私が大好きだった、お母さん。もう亡くなっちゃったんだけど、お母さんは昔から花が大好きで、いつも綺麗な花を育てていたの。そして、私と同じように花の匂いを嗅いでいた。それが習慣づいていたんだ」
 美香は毎日欠かさず花に水をやり、枯れたら新しい花を活けて、その度に花の匂いを嗅いで満足そうな顔をしていた。僕はそんな美香の横顔が好きだった。

 誰かを亡くすことは、そう簡単に過去にはならない。死は過去、現在、そして未来を通じて帯びていく。僕は美香を失った悲しみを過去のものとして忘れることはできないし、これからも美香がいない人生を歩み、その都度天命を恨んでしまうだろう。
 ただ、花に罪はない。美香が亡くなってからこの花瓶が彩られたことはなかったが、もしかすると魂になった美香が「花の匂い」を求めているかもしれない。

 翌日。僕は近所にあったスーパーで種類はわからないが花を買い、花瓶に水を入れて花を入れた。そして、花の匂いを嗅いだ。
 花の匂いは、しなかった。だが代わりに、美香の香りがした。途端に、美香と過ごしてきた日々がフラッシュバックする。花は、美香が生きてくれたことを教えてくれた。
「美香。花は良い香りかい?」
 僕の隣で、一緒に嗅いでいますか? 僕は熱い涙を流しながら、何度も花の匂いを嗅いだ。

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