ラジオネーム、ラベンダーとホットミルク (短編小説)



 四月の風が部屋中を怠けさせる。僕は作業部屋にある机の椅子に座って、先ほどまでモワッとした湯気が出ていたブラックコーヒーを飲みながら、毎週日曜日の昼ごろになると必ず聴く、くだらないコミュニティラジオを流して執筆活動をしている。
 アフィリエイターの仕事は面倒ごとも多いが、ライターとして人生を進めたい僕にとっては好都合な仕事だった。今は飲食店でバイトをする傍で、アフィリエイターの仕事もこなす、わりと忙しい日々を送っている。
 今、僕は興味のないアパレル商品を、いかに良質であるかを伝えるために言葉を探し続けている。難解なこともあるが、それがまた楽しかったりする。
 ただ、脳内をグルグルと彷徨っていると、ときに仕事とは関係のない、だけど僕自身が無視をしては通れない出来事に遭遇したりする。
 僕が初めて付き合った女性、美菜は、三ヶ月前に突然僕の前から消え去ってしまった。それはまるで、気がつくと咲き終わっていた桜のようだった。
 理由はわかっている。些細なことで喧嘩をしたことが何度かあり、その度に僕は強い口調で彼女を責めたりした。彼女はボロボロと涙を流し、僕を貶した。僕もまた、彼女を貶した。思ってもいない言葉が飛び交って、僕らは共々疲弊したのだ。
『今までありがとうございました』
 そんな業務めいた書き置き一つだけを残し、美菜はいなくなった。
 僕は美菜がいた頃の世界を思い出す。彼女は日曜日になると、決まってこの部屋に来て、僕の作業を見守りながら、ときに談笑しながら、苦い飲み物は嫌いだからとホットミルクを飲んでいた。そして、美菜が一番好きだったラベンダーの生花を僕の部屋に飾り、この空間に一種の彩りを加えてくれた。僕はそれが無性に嬉しくて、つい美菜の唇を奪ったりしたものだ。
 ただ、今はもう存在しない花となり、放置された花瓶が無情に留まっているだけだ。
 もっと、愛することはできなかっただろうか。僕はひとしきり考えて、やはり美菜が好きだったと自覚する。僕にとって美菜は、このラジオくらい溶け込んだ日常そのものだった。だから、普段はそれほどありがたく思うことはなく、むしろ邪気に扱ってしまうこともあったくらいだ。
 だが、本当に必要なものは、失った後に初めてありがたみを知る。たとえば冷蔵庫だってそうだ。何気なく使っている冷蔵庫に日頃から感謝することはないが、壊れてしまって機能しなくなったとき、買ってきたアイスがドロドロに溶けていくさまを見て、初めて存在価値の高さに気がつける。僕にとって美菜は、毎日の生活に欠かせない必需品だったのだろう。もっとロマンチックにいえば、美菜は毎日のように見える星。ありふれた時間の中に潜む、些細な花だった。
「さて、続いてのメールは……」
 日曜の午後。たしか近藤という名のパーソナリティが、今日も呑気にメールを読み続けている。地域限定のラジオともあって、いつも同じような人からしかメールが来ない。それでも、誰かのために働く彼を、僕は少しだけ尊敬していた。
「東京都にお住まいの、ラベンダーとホットミルクさんからですね。ありがとうございます」
 僕はそのラジオネームを聞いて、ふと耳をラジオに傾けた。
「えー、わたしは数ヶ月前に彼氏と別れてしまいました。しかし、いまだに後悔する気持ちがあり、モヤモヤしています。近藤さん、どうしたらいいですか?」
 胸の奥が、ギュウッと締め付けられて、じわりと熱くなる。
「ラベンダーとホットミルクさんのお悩み、わかりますねえ。失恋しちゃったけど、彼の気持ちが忘れられない。うんうん。僕も昔そんな経験をしたことがありますよ。だけどね、僕は別れてからしばらく経ったあるとき、ふと彼女のことが忘れられない存在だって気がついたんですよ。当時は他の女性と付き合っていたのですが、やっぱり頭の片隅には、いつだって僕の最愛の人が浮かんでいた。まるで蜃気楼みたいにね。だから僕は思い切って、当時付き合っていた彼女と別れて、すぐに最愛の人のところへ向かったんです。何を言われてもいい。もう一度ビンタされてもいい。だけど、この気持ちを伝えないとって使命感に駆られて、僕は最愛の人に会いました。するとね、彼女は僕を見た瞬間涙を流してね、抱きついて来たんですよ。お互い、同じ気持ちだったんだって、僕らはようやくそこで本当の愛を結ぶことができたんですよ。まあ、話は長くなりましたけど、要は後悔するとか、モヤモヤする気持ちがあるなら、今すぐにでも会いに行くべきですよ。うん。絶対にそうしたほうがいい。自分が相手のことを大切に思うほどね、後悔って大きくなるんですよね。だからね、思い切ってレッツゴーですよ」
 僕はそこでラジオを消して、急いで外へ出る格好に着替えた。僕の胸の内は、もう後悔の海と化している。ザブンと揺れる波は、全てが美菜を愛する気持ちだった。
 ごめん美菜。辛い思いをさせてしまって。
 僕はこの部屋にもう一度ラベンダーを咲かせるために、ホットミルクが大好きな美菜の元へ向かった。


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