ひとときの息抜き 4
この日一番の大雨が降ってきたらしく、僕はその音を聴きながら、何時間もずっとベッドの上で寝転がっている。
猫になる。それがもし本当に可能なら、迷わず全てを捨てても後悔はない。
『あなたはおそらく、人として生きることに向いていなかったのでしょう』
ジョニーさんの言葉が頭の中を跳ね返るように反芻して、僕を戒める。
もう、全てを終わりにしよう。
僕は家にあった食パンを焼いて食べ、風呂に入って歯を磨き、最後に人間らしいことを全てこなした後で、そのまま朝まで眠りについた。
翌日は気持ち良いくらいに青空が広がっていて、僕が人生を終えることを祝福してくれているようだった。
今日は仕事も休み、午前中から喫茶店へ向かう。水溜まりが澄んだ空を反射して、地上を美しくする。
喫茶店に着くと、マスターである吉川さんの前に座り、いつものようにコーヒーをいただく。
「今日も苦くいたしますか?」
「はい。お願いします」
「かしこまりました」
ここでコーヒーを飲むのも最後だ。片方の耳にイヤホンをつけてラジオを聴くおじいさんも、営業と偽って仕事をサボるサラリーマンも、学校が面倒になったのか、こんな時間に制服姿でサンドウィッチを食べる高校生も、みんな今日で僕とは関係のない生き物になる。僕は猫として、ただただ忙しない人たちを横目に、日向ぼっこをして悠々と時間を過ごすだけだ。
「お客様。お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
マスターのコーヒーは、いつも以上に僕の心に浸透し、哀愁すら漂わせる。何事も最後であることを認識すると悲しくなるのが人の定めだ。僕は悲しさを堪えて、その美味しいコーヒーをゆっくりと飲む。
飲み終わった後で、僕は一息ついてから、マスターである吉川さんに告げる。
「マスター、『ひとときの息抜き』をください」
錆を削ぎ落とすような温風が僕に当たる。マスターは少し寂しそうに僕を見つめる。
「覚悟したみたいですね」
僕は無言で頷く。
「そうですか。では、この紙を持っていってください」
その紙を受け取って、昨日と同じ通路を辿り、冷たくなったドアノブをひねって部屋へ入る。
「織田さん。お待ちしておりました。今日ここにいらしたということは、覚悟ができたようですね」
「はい。僕はもう、人として生きる道を辞めます」
ジョニーさんは少しだけ笑みを浮かべる。
「分かりました。私は今までずっと人を助けるサービスをしてきましたから。あなたの願いもきちんと聞きますよ。では、このベッドに寝転んでください」
僕は指示通りにベッドに寝転がり、目を瞑る。
「これからは人ではなく猫として、生きてみてください」
「ありがとう、ございます」
「現在六月十四日、午前十時十九分です。それでは、おやすみなさい」
僕の魂が僕の身体から離れていく。遠く、遠く上空へと浮遊していき、やがてこ
の街全体を見通せるようになる。
「では、魂を猫に転生させます」
あらゆる感覚が塞ぎ込まれ、僕の魂は一瞬で真っ暗闇な空間へ閉じ込められる。
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