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君がいた夏 1 (短編小説)



 菊月が訪れると、潮風を浴びながら単調に繰り返す波の音も遠のき、僕は東京へと戻っていく。過去が左から右へと流れていき、どこかで郷愁を抱いていたはずの記憶は色褪せていく。
 だけど、未だに君のことだけは忘れられずにいる。
 砂浜にぼんやりと付いた足跡は、二十八センチのシューズだけで、それはたしかに波にさらわれて跡形も無くなった。だけどあのとき、僕の横には君がいて、地平線の先に見えるヘヴンを、光が失われた眼で眺めていた。
「私、どうして剛くんと手を繋げないの?」
 夏が終わる前。いつも君が残していく疑問に、僕は答えを出せずにいる。
「お終いの連絡船が君を迎えに来たんだよ」
 なんて残酷な言葉をかけるくらいなら、いっそ僕も一緒に天頂していく便で出港するべきかもしれない。
 夕日は狂いもなくゆっくりと落ちていく。そして僕と君は、しばしのお別れをする。完全に日が落ち、あたりが暗闇に満ちると、君は何処かへ消え去ってしまう。僕はそれを止めることができず、途方に暮れる。僕と君の夏が終わる。
「来年こそ、一緒に手を繋ごう」
 僕が放った無責任な約束は、それから一年が経つ間、ずっと胸の奥で僕を操り続けている。


 君が亡くなったのは、僕が初めて君と出会ってから三年が経った夏のことだった。酷暑を叫ぶ目障りなワイドショーを横目に、君が「海に行きたいね」と僕にねだった。
「海ならひとつオススメがあるよ」
「え、どこ?」
 君は興味津々に僕の顔を覗きこんできて、僕を苦笑させた。
「そこは僕の地元で、毎年夏になると一泊だけして、必ず日が暮れる少し前に海へ行くんだ。海自体も真っ青に澄んでいて綺麗だけど、何よりも美しいのは夕日で、じっくりと時間をかけて、だんだんと放つ光を閉じて、まるで終演していく感じが素敵なんだ」
「へえ。私もその夕日見てみたいな。絶対綺麗だよ」
「じゃあ、今度連れて行ってあげるよ」
「ありがとう」
 僕は君と口約束をして、一夏の思い出を作ることにした。
 しかしそれから二週間後。蝉が煩わしく鳴き続け、小さな少年が虫かごをぶら下げている姿を見かける頃に、君は突然亡くなった。車に轢かれたことによる事故死だった。泣き叫ぶ遺族。黒いスーツを纏った人たち。立ち込めるお香の匂い。天真爛漫な君の笑顔が飾られた仏壇。
 ついに波の音を聞くことがなかったその夏。僕の視界はモノクロに変わってしまった。


 翌年の夏。僕は君が残していった最後の願望を叶えるために、一人実家に帰って、近所にある海を見に行った。それは夏が終わる頃の話で、観光客もめっきり減って、散歩に使っている地元の人を数人見かける程度だった。
 僕はしばらく砂浜に立ち尽くし、吸ってはいけないタバコをふかしながら君を思い出した。あまりにも呆気ないお別れに、一年経った今でも全く受け入れることができていなかった。どこかで笑いながら僕のことを隠れて見ていて、僕に気がつかないように、ポンと肩を叩いてくれるのではないかと本気で信じていた。会えないことを悲しむより、会えることに期待してしまった。
 だから、本当に会えたときは胸の淀みが一気に晴れてしまった。
「本当に綺麗だね」
 沈みゆく橙色な光源を目を細めて見つめ、気持ちを整理して帰ろうと気持ちを切り替えたときだった。君の声が聞こえた気がして横を見ると、一人で棒立ちしている君が隣にいた。
「嘘だろう?」
 僕は思わず君に触れようとする。だけど君に触れることができない。何度やっても、僕は君と交わることがなかった。
「また見たいね、夕日」
 灯りが完全に海へと浸かったとき、君の姿が見えなくなった。僕は何も言えなくなって、幻影になった君を抱きしめられない虚しさで目が潤んだ。

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