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描かれた夢の先で(3)

「まさこは元気?」
 翌日。僕は朝から母の妹である遠藤よしこさんの家へ向かった。よしこさんは母よりも三つ年下で、今は一人暮らしをしている。ただ、母とは違って一人でなんでもこなせてしまう人だった。
「元気です。まあ、だいぶ記憶は失われていますけどね」
「そう」
 僕はよしこさんが用意してくれたほろ苦いコーヒーを飲み、不安定な心を沈める。よしこさんは僕の前に座って、どんよりとした息を吐いた。
「認知症って、悲しいよね」
 それは、間違いのない事実だった。だから僕はここまで孤独を味わっているのだろう。母が近くにいるにも関わらず、どうしてか遠のいていく不思議な感覚に襲われてしまうのだろう。
「そうですね」
「会うの、辛くないの?」
 よしこさんが心配そうに訊いてくれる。側から見れば、この状況は決して楽ではないことを理解してくれているのだろう。
 ただ、僕は母を避けることはできなかった。たとえ失われていく記憶を目の前にしても、僕にとって母は唯一の肉親だ。これから先どんな母になってしまっても、僕は最後まで母を大事にしていたい。だからこそ、母が抱えた辛い過去を知っておきたかった。
「僕はどんな母であっても好きなので、大丈夫ですよ」
「そう。優しいね、浩くんは」
 よしこさんは僕から少しだけ目を逸らして、利他を見つけた嬉しさを頬に滲ませていた。それから、僕らはしばらく黙って各々の感情を整えていた。時計の針が進む音だけが響き渡っていた。
「あの」
 そろそろ踏み出すときだろうと思った僕が声をかけると、
「ああ、まさこの話だよね」
 とよしこさんは姿勢を正して、深く息を吐いた。
「昨日も電話で聞いたけど、まさこは少女を抱えた男が炎から出てくる絵を描いていたんだよね?」
「そうです。『夢』をテーマにしたところ、母はそんな絵を描いたみたいです」
「なるほどね」
 よしこさんの目は、虚ろさを隠し切れていない。顎に手を当て、何かをずっと悩んでいる。
「ショックな話だけど、浩くんはもう大人だから大丈夫だよね」
 それは、僕がこの先の扉を開けるか否か、確認をする合図だった。
「そうですね。僕はこう見えても立派な大人になりましたから、心配はいりません。なるべく、本当のことが聞きたいです」
 僕の素直な気持ちに、よしこさんは何度か頷いた。
「ほんと、月日が経つのが早いわ。わたし、いまだに浩くんが小さい頃の姿を鮮明に覚えているのよ。幼いながら、浩くんはまさこのことをずっと気にしていたわ。荷物が重そうだったら代わりに持ってあげたり、自分から家事の手伝いをしたり。浩くんは昔から真面目な子だったね」
「そ、そうでしたかね」
 改めて言われると、こそばゆい気持ちになってしまう。
「でも、浩くんがそこまでしっかりした性格になったきっかけは、おそらくあのときだったのかなって、今は思うの。これから話す、まさこにとって生涯で一番悲しい日が、浩くんにとっても転換期だったのかなって」
 それが、母が白紙に描いた『夢』に繋がっているのだろうか。僕は姿勢をただして、過去を受け入れる覚悟を決めた。
「これはね、浩くんが三歳の頃の話なの」

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