性に群がる銃 (短編小説)


 どうして、人間は性に対して貪欲であり続けるのだろうか。わたしはつくづく疑問に思っている。
「お綺麗ですね」
 それは、マネキンにかけるべきであって、化けたわたしにかけるべき言葉ではない。
「ありがとう」
 だけど、わたしは満たされる承認欲求で嬉しさを押さえきれず、だらしない顔をした男に対して、つい微笑んでしまうのだ。
「よければ、今度食事でもいかがですか?」
 そんな男に対しても、もちろんわたしは笑顔で対応するが、決して行くことはない。
「ごめんなさい、その日は用事があるの」
「そっか。また、連絡するよ」
 ある男に至っては、
「姉ちゃん。一夜だけ、どうかな」
 と直球で来る正直者もいる。
「ごめんなさい。わたし、相手がいるから」
 ただ、わたしはどんな状況でものらりくらりとかわす。意外に足の速いシマウマが、猛追してくるライオンから華麗に逃げるように。
「でも、ありがとうね」
 だけど、わたしはつくづく狡くて性格の悪い人間だから、相手を悲しませることはせず、むしろ好意を抱かせ続けるように仕向ける。巧妙な女を見事に演じているわけだ。
「ぼ、僕、いつかアンさんに振り向いてもらえるように、頑張りますよ!」
 興奮しながら、無意味な情熱を迸らせる童貞に対して、わたしは「ありがとうございます」と謙虚な姿勢のまま対応する。完璧な女。わたしはいつだってそれを演じ続けている。
 だから、仕事終わりのお風呂は人よりも幾分も幸福を感じることができる。
 技術進化を重ねに重ね、もはやバレる心配などする必要がないほど薄くなった『仮面』を取り、真の素顔を湯で洗う。蒸れて汗まみれな髪の毛をシャンプーで洗い、また湯をかけて頭皮の脂を落としていく。顔面も入念に洗った後で、わたしは真実を映す鏡に目をやる。
 そこには、二十八歳の勇ましい顔をした男が一人、孤独な表情をして、死んだ目をしている。モンゴルに広がる草原を一瞬で枯れさせてしまいそうな、虚しさに包まれた目だ。
 男のままでは、愛など感じることはなかった。誰かを恋することが罪であるように感じて、愛を実らせることなど、フィクションの世界でしかないとさえ思っていた。
 そんなとき、一人の怪しげなおじいさんが、新宿の路地で人間の顔をした仮面を売っているところに通りかかり、わたしはそれに吸引されてしまったのだ。
「この仮面、被るとあっという間に別人に変身できますよ。もちろん、声も変わりますし、プロフィールも変えられます」
 おじいさんは不気味な内容を語るわりに、随分と陽気な声で販売促進をしていた。鬱屈を掛け算したような人生を歩んでいたわたしは、即お金を出した。
 それから、わたしは無惨な人生を送ってきた男と別れを告げ、東堂アンといった名の女性に生まれ変わった。住所を変え、仕事場を変え、それまであった雀の涙ほどの人間関係をリセットした。あらゆる環境を変えた上に、美人となって再び社会に出たわたしを、周りは面白いくらいに歓迎してくれた。近所に住む田中という男は、わたしに一目惚れしたのか、
「アンさん、もしよかったら」
 などと恥ずかしそうに言って、何度も差し入れをしてくれた。仕事場ではいつだって男が下半身にある銃をわたしに向けながら、好きであることを遠回しに教えてくれた。
 今のわたしは、きっと幸せなのだろう。東堂アンは、一生美しさを保ったまま生きていられるのだから。
 なんと言っても、これは仮面なのだから。
 ただ、時々掴みようのない巨大な不安がわたしを喰らおうとする。このまま、のうのうと生きていられるのだろうか。そもそも、いつまで東堂アンとして生きていられるだろうか。始めたときは、とりあえず現状打破を目的としてスタートしたのだが、今となってはただ目の前にある快楽を求めているだけであって、未来のことなど一寸も考える余地がなかった。
「まあ、どうにかなるか」
 わたしはそう言い聞かせて、元の姿のまま風呂から出た。顔面は変えられても、身体は変えられない。幸い身長は低かったが、男特有のゴツゴツとした岩みたいな身体、反り上がった尻、そして下半身にある立派な銃は、たとえ東堂アンであっても隠せない真実だった。
「やばい。下着忘れちまったな」
 仕方なく、わたしは裸のままリビングへと向かう。すると、わたしの部屋にあるソファの上に、誰かが座っている。
「え?」
 その人間は、わたしを見るなり、「あ、え、え?」とわたし以上に驚いてしまっていた。
「え、あなたって。田中さん?」
「あ、あ」
「え、なんでここにいるんですか?」
 心臓の鼓動が速まってしまうのは、単に田中が目の前にいるだけではなかった。
「いや、それは、その」
 田中の脳内は、おそらくコントロールができない状態に陥ってしまっているのだろう。
「あの、だれですか?」
 田中はわたしに対して当然の質問を投げかけてきた。田中が描いていた人物はわたしではない。正確に言えば、わたしが化けている東堂アンの方だろう。だが、今のわたしは東堂アンではなく、ただの二十八歳のおじさんなのだ。
「ここって、東堂アンさんの家ですよね。それなのに、どうして男の人が住んでいるのですか? おかしくないですか?」
 田中は何かを取り戻したように、急に理性的な人間に戻ってしまった。犯罪を犯しているのは田中の方なのに、冷静でいるの田中だったのだ。
 わたしは頭の中で、田中の言葉を反芻する。
 ここは東堂アンの家。だけど、わたしの家でもある。この人は東堂アンを求めている。しかし、それは同時にわたし自身を求めていることにもなる。それを、田中は「おかしい」と結論づける。もちろん、田中目線で言えば、奇妙極まりない話だが、わたし自身はどうだろうか。化けの皮を剥いだ本物のわたしが、東堂アンを差し置いて「おかしい」と言われてしまったのだ。
 わたしはいつだって劣等感を抱えて生きてきた。だからこそ、東堂アンとして生きる決意をした。それで少しでも自尊心を保つことができればと夢見ていたからだ。
 だが、それはわたしの流れ星よりも儚い希望に過ぎなかったのだろう。結局、幸せだったのは東堂アンであり、仮面の下にいるわたしは、ちっとも幸せではなかったのだ。
「うるさい。うるさい!」
 わたしはキッチンにあった包丁を取り出して、勢いに身を任せて田中に飛び込んだ。かなり唐突な出来事だったのだろう。田中は抵抗できずに、包丁に心臓が刺さって呆気なく息が止まった。ばたりと倒れて、りんごの皮よりも気味悪い赤色の血がフローリングを支配し始める。それは、まさしく欲望そのものだった。
 わたしは冷静に包丁を抜き、それを水道で洗い流してから、自分がよく使っているリュックにしまい込む。それから服を着て、キャリーケースに必要最低限の荷物を詰め込み、最後に風呂場へと向かい床に落ちていた東堂アンの仮面を回収する。これは、どっかの川にでも捨ててしまおう。
「バイバイ、東堂アン。あんたとはもうお別れよ」
 わたしは部屋の電気も消さず、鍵も閉めずに部屋を出た。
「また仮面を買って別人になるかな」
 冬の風は何もかもを奪い去るような孤独を浴びせる。わたしは一つため息を吐いてから、ゆっくりと歩みを進めた。
 

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