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牧野エミの配信〜その後 『ふうふう』
翌日の夕方に家に帰って来ると、母さんが台所でお雑煮を作っていました。
「お雑煮ってなんとなく正月だけ食べるイメージがあるけど、別に正月じゃなくても食べていいのよ。もっとその事実に気づくべきだよ、日本人は。ああ、そういえば今日の十九時からエミちゃんがインスタライブやるって」
「それ、蓮にも言われたよ」
「ああ、そうなの。みんな関心があるんだね。私、エミちゃんが何を言うのか気になるから、配信を見ようと思うの。夕飯はその後でいい?」
「構わないよ。じゃあ、僕は部屋にいるから」
僕は自分の部屋に入って、腰などのストレッチをした後でインスタを開き、牧野エミのアカウントをフォローしました。母親も、そして好きな人も見るコンテンツを僕だけ見ない理由はありませんでした。それに、僕にとっては最初で最後のキスした女性、らしいから、そんな彼女の哀れな姿を見て、少しは同情するか寄り添ってあげるべきかもしれないと、なぜか上から目線で考えてしまう自分がいました。蓮と『夫夫』になれたことで、少し調子に乗ってしまったのかもしれません。
十九時になって、牧野エミのインスタライブが始まりました。彼女は喪に服したような黒いニットのセーターを着ていました。
「この度は関係者の皆様、並びにファンの皆様に多大なるご迷惑をおかけしましたこと、大変申し訳なく思っています。申し訳ございませんでした」
深々と謝罪する牧野エミは、僕の知らない女性でした。
「羽場流星さんとは一年ほど前に共演したことをきっかけに交友関係を持つようになりました。最初はお互いのマネージャーなども付いていましたが、次第に二人だけで会うようになりました。お互い、バレないようにしていたつもりでしたが、油断してしまいました」
ただ、と牧野エミは前置きをして、
「キスはしていません」
と断言しました。
「したい気持ちになったことは認めます。ただ、できませんでした。手を繋ぐことはあっても、キスだけはできませんでした」
なぜ、そんな言い訳をしたのか。コメント欄は荒れて、まさに火に油を注いでいるようでした。ただ僕からすると、彼女は「キスをしないこと」にこだわりを持っているようでした。
そのこだわりの正体に気づいたのは、彼女が一枚の紙を出したときでした。
「これは、私が五歳のときに交わした結婚証明書です」
平仮名で書かれた『けっこんしょうめいしょ』の文字の下には、二つの小さな指紋がありました。一つは牧野エミ、いや、大島エミの指紋で、もう一つは、おそらく僕の指紋です。
僕は思い出しました。『けっこんしょうめいしょ』の裏に書かれた約束を。
「この裏に、いくつか約束が記されています。その一つに、他の人と絶対にキスをしないこと、と私は書きました」
コメント欄が一気に困惑の色に変わりました。何が起きたのか、おそらく僕と母さん意外は誰もわからないでしょう。
「実は今でも、私は彼のことが好きです。だから結婚証明書まで書いて、キスしました。私はあのときの思い出がずっと忘れられません。でも、もう彼とキスをすることはできません。それは彼が望まないことだから。私がこの目で確認したことだから、間違いないです。彼には別の相手がいます。それはわかってる。でも……」
望まないこと。この目で確認したこと。もちろん、これは推測ですが、彼女は大人になってから何かの理由で僕の地元を訪れたのでしょう。そのときたまたま、僕が男性と手を繋いでいるところを見てしまったのかもしれません。それが何を意味するのか、彼女なりに理解したのでしょう。
それから彼女は言いました。涙ながらに、しかし僕をリードしてくれたあの頃のような強さも含めて。
「私は彼と、本当の夫婦にはなれませんでした」
その後の話ですが、僕は蓮と『夫夫』になりました。もちろん正式なものではありませんが、蓮が用意した自前の「結婚証明書」に僕はサインをしました。あのときと同じように、親指に真っ赤なインクをつけて、指印を押しました。
「いやあ、牧野エミのインスタライブを見たとき、これは名案だなって思ったんだよね。そうか、自分で書類を作っちゃえばいいんだって」
「うん、そうだね」
「まあこれから先、本当に結婚できる未来があったら、そのときは正式な書類を書くってことで」
「そう遠くないと思うよ、多分」
「だといいな」
僕は幸せです。これからもずっと蓮がそばにいてくれる。その事実だけで、ニヤけてしまうでしょう。
あの夜のことですか? ただただ、やるせない気持ちでいっぱいになりました。牧野エミの気持ちは理解できます。でも、僕はやはり彼女のことをほとんど覚えていません。だったら彼女もいっそ、僕のことを忘れてくれよって思いました。そんな昔話、思い出にもならないよって。でも、忘れられなかったんでしょうね。それ以上、何も思いません。
そうだ、あの日食べたお雑煮がやけに熱くて、母さんが「熱いな、これ」と何度も言っていたことは覚えています。たしかに舌を火傷しそうになるくらい熱かったです。だから僕はふうふうして、お餅をかじりました。覚えているのは、それくらいです。
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