物も哀れ(短編小説)
僕は大層正義感が強いわけでもなく、社会に貢献しようなど微塵も思っていない若者ですが、誰かが傷つく姿を見ることは好きではありません。それはたとえ些細な物であっても、同じ感情を抱くわけです。
さて、これは先日よく利用しているスーパーマーケットへ行ったときの話です。水々しく新鮮なフルーツがお出迎えしてくれる野菜コーナーから、今にもピチピチと動きそうな鯛が売っている鮮魚コーナー、今にもジュージューと音が聞こえてきそうなお肉コーナーと通りまして、サハラ砂漠のように渇いた喉を潤したいと飲み物コーナへ向かったときでした。僕の視界に一人の老人が、周りを警戒しながらお茶を凝視していました。
ジロリ。ジロリ。
まさにそんな効果音が聞こえてきそうなほど、その老人はずっとお茶を見続けるわけです。
僕は深い違和感を抱かざるを得ませんでした。飲みたいなら、さっさと買えばいいじゃないか。しかし、その考えはすぐに甘いことに気がつきます。
その老人は肩にかけていたエコバックの口を少しだけ開き、スッとお茶に手を伸ばすなり、パッとその口の中に吸い込ませてしまいました。その時間、わずか一秒。僕は思わず目を逸らしてしまいました。老人はきっと誰にも見られていないだろうと油断したのかと思いますが、ここにはっきりと目撃者が存在してしまいました。
どうしよう。これは店員に言うべきだろうか。しかし、考えている隙に老人がスタスタと去っていくので、とりあえず追いかけて尾行することにしました。
それからも、老人は忍者の如く素早い動きで手際よく物を取っては、迷わず鞄にしまい込んでいきます。たまに右手に持ったカゴにも入れていきますが、あれはきっとカモフラージュでしょう。
嗚呼、この人のせいで頑張っている従業員が涙を流すのだろう。僕の想像は遥か遠くにいる見知らぬ人が泣く姿まで及んで、これはどうにかしないといけないと使命感を抱きました。
一頻りルートを回った老人は、お会計へと進んでいきました。僕はその間に買い物カゴへ入れていた物を片付けて、小走りで出口付近にあるサッカー台まで先回りして、その老人を観察します。ガヤガヤした店の中で、淡々と買った物をビニール袋に詰めていく老人。しかし、僕がこの目で見てきた物たちは、そのビニール袋に入ることはありませんでした。
これは、やはり盗むな。
老人はカゴを片し、出口へと向かっていきました。僕は走って追いかけます。待ってくれ、あなたが盗んでしまうと、どこかの誰かが傷つくことになるんだよ。そんな想いを足に乗せて、老人が店を出た途端、僕はその人の目の前に立ち塞がりました。
「はあ、はあ」
最近運動不足だったから、僕の息は激しく切れてしまいました。
「どうしましたか?」
その声はまるで二年前に亡くなったおばあちゃんそっくりでした。穏やかで、優しくて、心をじんわりと温めてくれるおばあちゃんの声。僕は一瞬見逃してしまおうかと思いました。この老人が幸せなら、それでいいじゃないか……。
いやいや、何を血迷っているのだ! 僕は誰かが傷つくのが見ていられない身分じゃないか。それに、どんな小さな犯罪でも犯してはならない。それは、お母さんから口酸っぱく教えられた最高の教訓でした。
僕はレモン果汁みたいに迸る果実とはほど遠い、微々たる勇気をぎゅうぎゅうと絞りだして、声を出しました。
「あの!」
すると、「おばあちゃん、またやったんだね!」と若い女性の声が聞こえました。
「え?」
その女性は私服ですが、どうやらこの店の関係者のようです。
「また盗んだでしょう。絶対にバレるんだからもうやらないでって、前にお話ししたよね?」
僕の目の前にいるおばあちゃんは、じっと下を俯いたまま、お地蔵さんみたいに固まってしまいました。
「さあ、行きましょうね」
悪いことをしたら叱られる。今、僕の目の前で課外授業が行われている。そんな気がしました。
「あ、君。ありがとう。止めてくれたんでしょう?」
そのお姉さんが急に僕に声をかけてきたので、思わず「あ、はい」とタジタジになった返事しかできませんでした。
「おばあちゃん、万引きは人だけじゃなくて、物も哀れな気持ちにさせるってこと、分かってほしいんだけどね」
二人はゆっくりと店内へ戻って行きました。
物も哀れ。それは、僕が抱いてきた誰かを傷つけることへの怒りと似ているのかもしれません。
「万引きはいけないね」
ピーピー。電信柱に止まっている小鳥が「そうだね」と返事をしてくれたようでした。
僕はポケットに手を突っ込んで、晴天の空の下を歩きながら、この空のように気分も健やかになっていました。こんな日には、芝生の上でサンドウィッチでも食べたいな。ふわふわの食パンに、シャキシャキのレタスとトロトロ卵を挟んで。
ん? シャキシャキのレタス?
「あ、買い物するの忘れてた」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?