夜明けまで(6)
目の前に置かれた黄色い楕円形から、バターの香りがする。それを囲む丸い線は、皿だった。もう一度黄色い物体を見ると、それはオムライスだった。
周りには、私以外に誰もいない。換気扇が回る音だけが鳴り響く部屋。私は真横に立てて置かれたケチャップの蓋を開け、オムライスに向かって文字を書いた。
『孤独』
赤く滲んだ『孤独』は少しずつ形相を崩していく。私はただ、それを眺めている。
「おい」
すると、右の方から男の声がした。振り向くと、そこには正人がいた。
「あれ、正人。どうしてここに?」
しかし、正人は私の問いなど聞こえなかったようで、持っていたスプーンで私の『孤独』を塗り広げていった。
「お前は孤独じゃないさ」
「でも、私は」
「大丈夫」
すると今度は、左側から女の声がした。振り向くと、そこには沙耶香がいた。
「あなたは孤独じゃないから」
そう言って、沙耶香は持っていたスプーンでオムライスを掬い、私に食べさせてくれた。
「温かい」
私は何より、舌で感じたぬくもりを口にした。
「それが、望んだものだろう?」
「それが欲しかったものでしょう?」
私は二人の問いかけに、「うん」と断言した。
「おい」
その声が現のものであることに気がついたのは、重いまぶたをゆっくり開いた後だった。先ほどまでしたバターの香りは、いつの間にか磯の香りにすり替わっていた。
「正人?」
「そうだよ。お前、こんなところで何やってんだよ」
私が辺りを見渡すと、一面が青ざめた砂浜だった。私はすぐそこにあった白い貝殻を拾って、空に掲げてみた。
「綺麗だね、この貝殻」
人の幸せを願うように、尖りがない白い貝殻だった。
「たしかに綺麗だけどさ。いやいや、だからこんなところで何をしているんだって聞いているんだよ」
「何って、孤独を噛み締めていたんだ」
「孤独を噛みしめる?」
「だって、私は正人からも、沙耶香からも見放されたから。全部私自身が悪かったのはわかっている。わかっているけど、やっぱり寂しい気持ちには勝てなかった」
「それは俺も一緒だ」
私は僅かに正人の方へ視線を向けた。ドクドクする心だけが鳴り響く。
「俺だって寂しかったよ。お前と会えなくてさ」
「うちもだよ」
後ろから、ジャリジャリと砂を踏み締める音が聞こえた。振り返ると、黒いコートに身を包んだ沙耶香が眠そうな顔をして立っていた。
「沙耶香」
「びっくりしたんだよ。今日の夢の中で、急にあなたが出てくるんだから。しかも、うちに対して熱弁しちゃってさ」
「俺も見たよ、お前の夢。そしてその場所が、この海岸だった。だから朝起きてここに来たんだ。なんだか、お前がいるんじゃないかって思って」
「まったく同じ。うちもこの海が見える場所が舞台だった。起きたとき、無性にここへ行かないといけないって気持ちになったんだ。そうしたら、あなただけじゃなくて正人くんもいるからびっくりだけど」
私は交互に入ってくる二人の話を聞いて確信した。私の訴えは本当に二人の脳へと伝達していた。あの猫のおかげで、二人はここにいる。私のそばにいる。
「あれ、猫がいない」
気がつくと、私を包んでいたブランケットは無くなっていて、猫の姿も見当たらなかった。
「猫? この辺に猫なんていたか?」
「うちは知らない。あなた、夢でも見ていたんじゃないの?」
「いや、たしかに私は猫と話をしたんだ」
しかし、私の言葉に対して二人は軽快な笑いを起こした。
「おいおい、寂しすぎて幻覚が見えるようになっちゃったのか」
「それは重症だよ。かわいそうなことしちゃったね。ごめんね」
「俺も悪かったよ。大丈夫だ、これからも一緒に遊ぼう。まあ、寝るのは無しってことで」
「それはうちの特権だから。まあ、恋人じゃないけどさ」
そして二人が私を挟むようにして横に腰を下ろし、身体を寄せ合ってくれた。
「ありがとう、二人とも」
「いいってことよ。だってここがお前の居場所だろう?」
「そして、ぬくもりを感じる場所でしょう?」
「うん」
「それは俺も同じだ」
「うちも同じ」
「みんな、同じ」
やがてこの街に夜明けが訪れた。そして目を細めたくなるほどに眩しい光が、私を朝に染めた。
それからしばらく、私たちは日の出づる方向を眺め、とめどなく溢れる愛おしさに酔いしれるのだった。
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