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夜明けまで(3)

 深夜に浮かぶ煙は姿を見せない。ただ、忌々しい匂いだけが夜風に吹かれて漂っている。

「孤独は辛いか?」

 猫は問う。彼は孤独であることに慣れているだろう。いや、もしかすると孤独になっていることを知らないのかもしれない。猫にとって孤独は日常の範疇に過ぎないかもしれない。

「辛いよ。だって、温もりが無くなるから」
「温もり。人間は温もりが無いと辛い生き物か」

 猫が繰り返して呟く。私は空を見上げる。照明が落とされた天に、発光した点がばら撒かれている。そしてそれは僅かに輝いている。

「その通りだ」

「知っているよ。あなたが正人くんとベッドの上で寝ていること。それも、裸で」

 正人と会わなくなってなってから一週間ほどが経ったある晩。彼女であった沙耶香が、ベッドの上で告げた。

「ごめん」

 事実に対して、私は謝ることしかできなかった。ただ、沙耶香が求めていた答えは違かったらしく、「そうじゃない」とすぐさま否定してきた。

「どうしても理解できないの。その、単なる浮気なら理解できるんだけど、なんで男の人と一緒に寝るんだろうって。あなた、ゲイではないでしょう?」
「そうだね。私はゲイではない。でも、男を求めることがある。どうしても男の人が欲しくなることがある」
「うちのことは全く求めていないの?」
「いや、沙耶香のことを求めているのも事実だ。でも、それ以外に正人を欲しがる自分もいる。日によって、時間によって、気分によって、私が求める存在が変わってしまうんだ」

 夕飯を決めるとき、今日はご飯にしよう、今日はパスタにしよう、今日はそばにしよう、と日によって食べたくなるものが変わるのは当たり前だろうけど、一緒に寝る相手をコロコロ変えるのは倫理的に問題である。もちろん、私だってそれくらいの常識は備わっている。ただ、本能を無視できないほど欲望は私を支配している。

「でも、うちはあなたの彼女なんだよ? 罪悪感とかないの?」
「罪の意識はある。でも、逆らえない欲望もある」
「彼と寝るのは、気持ちいいの?」

 正直、性的な快感はそれほど多くない。彼に求めるのは、そこはかとない人間らしさだった。私はそれを言い換える。

「多分、私は温もりを求めているだけだと思う」
「温もり、ねえ」

 沙耶香は私の出っ張る頬骨を指でなぞって、軽くデコピンした。

「うち、あなたのこと好きだよ」
「ありがとう」
「でも、男と寝るあなたの彼女にはなれないし、やっぱり一緒に寝ることはできない。それはうち自身のエゴ。理解できる?」

 それはそうだと私は納得する。

「もちろん」
「たとえ、あなたが正人くんと別れたとしてもね。過去は色褪せていくものだけど、決して消えないから」

 私の中では、正人の胸板に口付けをした夜も、沙耶香の弾力ある胸を揉んだ夜も、記憶としてこの世界に刻まれている。しかし沙耶香は私が胸を揉んだという事実しか目にしていない。浮気相手の正人と寝た私に対して満ちるほどの疎ましい感情しか生まれないだろう。私の複雑な愛情など、知る由もない。

「傷つけて申し訳なかった」

 私はまた、謝ることしかできなかった。ただただ、無力だった。

「最後にキスしてあげるよ」

 沙耶香のキスは正人のそれよりも柔らかく、しかしうらさびしいものだった。まるで明朝の湿地帯みたいな虚しさが私を包んでいった。

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