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父の人生を変えた『一日』その40 ~差別~

その40 ~差別~
 アメリカ滞在が長くなりアメリカ人の人格者と心を割って話す機会が多くなった。
「ライオン、オリンピックのアメリカ代表の水泳選手を考えた事があるか?」
最初何を私に言いたいのか解らなかった。彼は人種差別「discrimination」の事を言いたかったのである。アメリカのオリンピックの水泳選手に黒人がいないと言う。
同じ風呂で、同じプールでは泳がないと言う。全く驚いてしまった。なるほどとも思った。陸上には素晴らしい黒人の選手があれほどいるのにとも思った。
 シアトル支店で残業していると黒人の掃除人「custodian」(カストディアン)が良く掃除に来た。机の上に時計や小銭がのっていても一度も物が無くなったことがなかった。深夜、帰る時この光景を見てビックリした。このビルの管理会社が掃除人を素っ裸にしてチェックしていたのである。ほとんど深夜のカストディアンは黒人であった。
日本人の90%はシアトルの隣町ベルビューで住んでいるが、理由は黒人が住んでいないからであった。黒人はシアトルに住んで無料バスを利用している。車が無いので橋を渡ってベルビューに行けないのである。アメリカの人種差別、考えさせられる問題であった。長くシアトルに住んでいたがシアトルで黒人と白人が結婚している事例は1件しかみていない。


~倅の解釈~
 この時代はまだ人種差別は間違いなく実在していた。シアトル、ワシントン州は人種差別には絶対的に反対な州ではあったが、そこには人種差別が確実に実在していた。親父は「黒人」しか取り上げていないが、ヒスパニック、ムスラム、アジアン、ジューイッシと。とにかくアングロサクソン系でない人種に対する差別はあった。黒人に対する差別が目立っていただけである。
親父のここでは語られていないエピソードがある。ある時、遅くまで会社に残り、駐車場に車を取りに行くと、車の横に黒人が立っていたという。恐れ知らずの親父はその黒人に対し、「Hey!!」と叫んだ。その瞬間、親父に向かって走ってきた黒人。少林寺拳法三段の親父であったので、蹴り一発で相手をノックアウト。そのまま、車に帰ってきて武勇伝を家族に話した。家に帰って気づいたが、車の窓ガラスが割られていたいという。どうしても低所得層に黒人が多く、犯罪率では黒人の犯罪率は高く、更に差別への拍車をかけることとなっていた。
高校1年生の時、ジムでトレーニングしているとアメフトの大男からベンチプレスを抑えられて、「お前みたいなジャップはジムに入る資格がない、出ていけと」立ち上がると「お前の爺さんの頭蓋骨をこのブーツで俺の爺ちゃんは潰したんだ」と。ベトナム戦争の事を話したのだろう。無知な彼にとってはすべてのアジア人は一緒。その場で数発殴られ、空手をやっていた私は気づいたら彼を地面にねじ伏せていて、右腕と肘を折っていた。二人とも停学処分。ただ、その話が噂になり、だれも私に喧嘩を売るやつはいなくなった。
高校2年生のダンスパーティー。ホームカミングに付き合っていた白人の女性、ダービーと行くことになった。アメリカの風習でダンスパーティーの前に彼女の自宅に迎えに行き、ディナーをごちそうになることが決められていた。でも彼女は躊躇していた。両親はトレーラーハウスに住んでいて、出来れば外で食べたいという。勿論了承して、お迎えに伺った。白人の一家に迎えに行くのは初めてだったので、また差別されるのではと心配だったが、お父さん、お母さん共々、非常に親切にしてくれて、家に迎え入れてくれた。ディナーは外だったので、10分15分程度、コーヒーを飲みながら世間話。出発するとき、彼女を車に乗せた後、お父さんに最後のご挨拶。これもしきたりであった。握手をしながら、門限を聞くのである。「朝2時までだぞ。可愛い娘を最高のプリンセスにしてくれ」と握手をしながら、私の手に5ドルを手渡した。この5ドルは一生忘れない。
私自身は十代をアメリカで過ごす中、思春期ということもあり、様々な差別を受けたが、親父はさらにビジネスの世界ですさまじい差別を受けたのに違いない。でもその差別を乗り越えて、最高のアメリカでの友人が多数いた。いつの日か、私もアメリカという大きな舞台でどんなに小さくてもいいから商売をしてみたい。

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