複雑化と単純化/あなたの選ぶ未来はどちらか/成熟と教育のありよう
これから起こることは結構わかりやすくて、人の思考も行動もより単純化に向かうということになるでしょう。
ヒトは、元来、複雑な生き物、それこそ人そのものの内部構造が複雑系であるはずなのですが、教育と学びの過ちが、それを単純化に向かわせることに。
内田樹氏の直近の著書から引用するならば、"人の「成熟」とは、「複雑化」に向かうこと"、です。
その複雑な、簡単に割り切れない我々が単純化に向かうということは、成熟しないことを意味することになる。
とってもシンプルで単純な思考と行動の大人が増えていく。
いわば、自己決定のできない大人、自分の意思が人によってコントロールされてしまいやすい大人、そんな大人の増殖。
何か、つるんとした、ヒト。
消費とそれに伴う仕掛け(広告や営業、今ならばアルゴリズム)に、簡単に載せられてしまう人たちが続出することにもなりかねない。
国民に主権があるはずの政治決定すら、もはや危うい。
教育とそこにある学びが、本来は、人を成熟の道へ導くものだったはずなのですが、これがむしろ、今は単純化へ向かわせてしまう。
自分の意思と自己決定できない子(未来の大人)を育てていくことは、致命的に危ない。
幸いにもテクノロジーと国が持つ福祉などの仕組みが、それでもなお、僕らに生きていくだけの保障はもたらしてくれるだろうけれども。
果たして、そんな大人に我々は、なりたいのか。
考えるのは面倒くさい、そんな理由で、自由を差し出してしまうのか。
鍵を握るのは、小中の義務教育、及び日本では義務教育に近い高校でのの教育のあり方だろう。
出されたものだけをやる。
それも時間を大量に消費して。
意味もよくわからず。
徹底的に管理され。
お皿が出されないと食べることもままならない。
口に運ぶことさえ人任せ。
咀嚼すら人の手を借りる。
手の運動。
成果物だけを見て、わかった、できたと勘違いする学習。
多感な時期だからこそすべき、多様な経験は忘れ去れれ、ただただ点数だけをとるための膨大な時間の消費。
意味不明な校則群。
論理崩壊。
道徳とも倫理とも、かけ離れた学校論。
エビデンスが明らかな脳の働きすら無視。
心のありようすら無視された、強制、管理、統制。
"パノプティコン"
"ソーマの快楽"
許容されない時間。
保留されない判断と思考。
心を殺し、発言は奪われ、会話すらままならない。
"ニュースピーク"
"ファイアマン”
なぜか上位にいる大人が、自分たちの望む発言以外を黙殺する。
場合によっては、反逆者扱いに。
彼らは叫ぶ、"成績で5が欲しいのなら我々のいう通りに生きなさい"
"ビッグブラザー"
教養や体験知はどこへ?
そこにある身体性は一体どこへ?
誰かが決めた正解と許されない失敗。
正解がわかり切ったものを、ただ覚え、出てきた数字に一喜一憂する。
知性はどこへ?
創造性は?主体性は?意思は?
そして自由は?
"ユートピア”
あなたの人生の豊かさとは?
さて、あなたは、どんな大人になりたい(または子どもたちを育てたい)と思うだろうか。
(おわり)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。