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「幸福」とはある種の呪いである

日本社会で生きていく中で、僕たち多種多様な価値観を謳いながらも、常にその狭間で揺れ、嘆き、悲しみ、そして時に壊れていく

「自由」を求めれば自由であろうとする不自由さに縛られる
勧善懲悪を謳えば暴力が正当化されるし
平等だからこそ不平等が生まれる、差別があるから福祉が生まれる
見たいものを見たいようにしか見れないから自身の過ちに気付けない
そもそも価値観なんてものは一人一人の誤解の総体に過ぎない
事件が起こればそれが災害なら悲しみ、人なら憎む
何が起こったかではなく、誰が起こしたによって僕らの感情は様変わりする

そして「幸福」であろうと縋り、追い求める様はまさに呪いだと思わされる
幸せであることを知ってしまえば、以前の自分には戻れなくなるし、知らなければそこに向けて人生の指向性は決まってしまう
これを呪いと言わずして、なんと表現すればいいのか

生きていく中で色々な人と交わり、接していくけど過去何人かコミュニティにおいて誰からも嫌われる、相手にされない人と出会ったことがある
きっとその人にとって最も得(幸福)な言動をしてるだけなんだろうけど、そういう人は大抵残念ながら想像力が圧倒的に無いと感じる
自分は自分と自身を貫くことはキツいし大変だしカッコいいのかもしれないけど、それだと結局は社会で誰かとともに生きていく意味がなく、家で一生引きこもってろという結論になる
他者が自分に合わせてくれると、そういう人がいつか現れてくれるだろうという吐き気がするほど甘い考えで、ただただ自分の至らなさを他者のせいにし続ける
関わるだけ無駄だと思うから、そういう人は相手をしないようにしてるけど、結局は「幸福」という呪いに縛られた被害者なだけかもしれない

「型破り」を名乗るならしっかりと基礎を固めて型を作る必要がある
そうでなければただの「型無し」でしかすぎない
同じように自分を貫くためには他者を知る必要がある
そのうえで自分を認識出来なければ自分を貫くどころかただの非常識な奴にしか映らない

話がだいぶ逸れたけど、「幸福」というものも「不幸」という事を認識出来なければ足を知らないただの「不幸」に成り下がる
喪ってから、手放してから、初めてそれが「幸福」だったと気付く
「幸福」とは過去にしか存在しない
だけど僕らはそれを未来に求めてしまう
そしてそれが1番の「不幸」なのかもしれない

そんな事をぼんやりと考えながら今日も慣れない人間社会で笑顔の皮を被りながら、心の中で中指を立て続ける1日でした

書きたいことは沢山あるけど、需要があるか分からないし、すっかり筆不精になっちゃったな

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