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東京五輪振り返りディスカッション

非常に難しい状況の中で開催された東京五輪が終わりました。
感動を与えてくれたアスリートにはリスペクト、そして実施に関わった方々は本当にお疲れ様でした。

一方で個人的には延期後からずっと違和感のある大会でした。

そんな想いをFacebookで投稿したところ、20-30代のスポーツに関わる友人達からも同様の声があり、せっかくならとオリンピックとパラリンピックのインターバル期間に振り返るディスカッションを実施しました。

批判的に聞こえる内容もあるかもしれませんが、決して批判ではなく建設的に改善をしたいと言う想いで本音のトークした結果です。敢えて脚色しないで掲載したいと思います。
現時点で結論付けることが難しい内容が多いため、あくまでディスカッション内容の共有ですが、もし宜しければ同意でも、全く違う視点でのご意見でも頂ければ幸いです。

豊田さん、細田さん、高倉さん、ありがとうございました。皆さん、SportsX Leaders Program卒業生のスポーツ界の英俊ばかりで鋭い意見が多くて刺激を受けました。 

まとめ(詳細のログは後述)

1.「オリンピックの限界」
五輪のビジネスモデルには大きな課題があることが認識された。今後スポーツ界の成長において大きな課題となるのはスポンサーの価値、立ち位置、あり方にあるのではないか。

2.「日本におけるスポーツ界の在り方」
日本においては五輪を実施するための組織の作り方自体に課題があったのではないか。スポーツ界はどうありたいのだろう。

3.「レガシー」
難しい環境の中で直接的に意識できるレガシーは生み出せていない。これから活かして価値にしていくのはスポーツ界に課せられた使命と言えるのではないか。

4.「コロナの影響」
人流が発生しないことによる影響、コロナ対策が大会の成功可否と判断されてしまう状況の違和感。

5.「コミュニケーション」
メダル(結果)のみに意識が集中して、スポーツ界、団体としてのステートメントがなかったのが残念。スポーツ界が声を上げて純粋なスポーツの価値を伝えるべきだったのではないか。スポーツのメディア価値と使い方はまだ工夫が必要。感動を消費するだけではなく、価値を高めることに活かせないか。

6.「パラリンピック」
実は東京五輪の成功はパラリンピックの注目に掛かっているのではないか。パラリンピックは経済より社会的な効果が大きいのではないか

→パラリンピック実施後の個人的な意見として、オリンピックはホームアドバンテージ以外、世界のどこでやっても変わらないのではないか。パラリンピックは日本で実施したことで多様性の理解、共生社会の実現に近づくきっかけになり良かったのではないかと思います。

<ディスカッションログ>

テーマ① 今回の五輪、どうだった?ざっくりとした感想とか印象は?

Q: 例えば、意思決定においてスポーツ側があんまり関わっていない印象があったけどどう思う?
- 組織委の中でも半数以上が自治体またはスポンサー企業からの出向や異動で意志を持たずに働いている(粛々と業務をこなしている)人も多かった。競技運営サイドの現場では競技団体からの支援が多かった。

Q:その体制だとネガティブな気持ちを持ちながら仕事をすることも多かったのではないかな?
- 現場では急に決まって振り回されている感は実際にあった計画は一年延期もあり、作成されていたけど、全然計画どおりにいかなかった。例えば、組織委も発表の2日前まで無観客の想定はしていなかった

Q: スポーツの大会ってそういう種類のもの。現場の耐性が無かった?
- 端から見ていて、組織委は苦しい立場だなと思った。運営に落とす上での大事な論点(観客の有無とか感染対策とか)は組織委だけで決められず、政府やIOCやIFの判断を待つ状況が続き、世論に流される形でルールが変わり、結局直前で対応に迫られていた印象。
- 現場では関係者のクラスター対策なども含めて有観客でも実施できる環境は整えていた。

テーマ② そもそも五輪って何のためにあって誰が運営するの?

Q: 五輪はそもそもスポーツ界のものではない?
- スポーツと政治は分離しているようでそんなことはない。「政治活動」は分離されているが、組織運営や意思決定の主導は政治側だったように映った。政府主導でスポーツ界のための大会ではなかったのではないか
- 例えばFIFAのクラブW杯はサッカー界がサッカーのためにやっていた。FIFAが主催し、JFAが国内で世界トップレベルの大会を国民にみせるために政府に働きかける形=スポーツ主体で検討・開催・運営されている
- スポーツの祭典なのに、スポーツ界のステークホルダーが意思決定層にいない(実用的ではない)。スポーツ庁やJOC理事はどこまでの意識決定ポジションにいたのだろうか?
- 夏季五輪は規模が大きいためスポーツ界のみでは実現は難しい

Q: 東京五輪は誰が何のために?大会としてエンジンとなるもの、当事者は誰なのか?
- 初めの目的としては国威発揚であり、経済効果を狙っていたように思えた。つまり政府がインバウンドのため、インバウンドを魅力としてスポンサーした企業、代理店、それにぶらさがったスポーツ団体と開催都市?それとも開催都市のパフォーマンスが原点?
- コロナでインバウンドの魅力がなくなった時点で開催に向けたエンジンが無くなったのではないか。最後の方で五輪を本当にやりたかったのは誰だろうか?
- 復興五輪というキーワードはいったい何だったのか?東北の皆さんのコミットがそもそもなかったように受け止めているし、興ざめする状況だったのではないか。何が出来ていたら復興と言えたのかが目標設定されていたのか?

Q: そもそも今の時代に五輪というフォーマットでやる意義がない?
- 競技の記録、限界を目指すのであれば競技ごとに世界選手権がある。ベストなコンディションが発揮できる大会フォーマットや時期、開催地を各競技がベストを尽くして考えて実施している。
- でもオリンピックが目指しているものは世界選手権の集合体ではない。それだと意味がない。
- オリンピックムーブメントといった理念もある。それを本気で実現しようとした人、それを発信しようとした人は今回いたのだろうか?
- 現時点では経済圏が存在しないスポーツにとっては注目を集めるメリットがある

テーマ③東京五輪は何を残せたの?レガシーは?
- 今回は経済的にも成功しなかった、物としてのレガシーは残らなかった。消費される感動だけが残った。
- 国としてもスポーツの気運を高めたい、スポーツ産業を15兆円にしたいという目標が五輪を踏まえての目標としてあったはず

・経済効果とか経済面では?
- 経済的なリターンはもう途中でペイしないことは見えていた。そもそも達成目標を定義していないので2020年にやっていようが失敗に終わったのではないか?

・スポーツ界の成果は何だった?
- メダル数以外でそもそも何を得たかったのか?これが明らかに見えているところがほとんどなかったのではないか。
- 競技団体として五輪の結果だけではなく、五輪を起因にしてのアクション、戦略は事前に設計されていたのか?
- 大半の施設はレガシーとして残らない。

・産業や各競技のゴールは何を掲げていたのか?
- ホッケーは「品川をホッケーの街にする」というアプローチを取っており一定程度の成功を収めているのではないか。
- 国としては五輪をキッカケにスポーツ実施率を上げると掲げていたけど効果出た?軌道修正がないままにやることありきになった印象

・人材の面ではどうだろうか?
- 五輪に関わったことで組織委からスポーツ界に行きたい(転職したい)と思った人は居なかったのではないか?継続して今後もスポーツに関わる人は少ないと思う。(これを機にスポーツ界にどんどん人が入ってくると期待していたのに)
- 唯一有るのはこれを経験した関わった人。この経験を活かしてこれからポジティブにアクションする人が居なければ何も残らない。それなのに関わった人や普段からスポーツ界で投稿する偉い人たちは基本的にダンマリ&五輪は成功!みたいな論調が見える。本気で言っているのか疑問?

・なぜ今回の違和感を誰も発信しないのか?               -スポーツ界(人)は負の部分を発信しちゃいけないというバイアスが働くのではないか?そもそも感動で満足して違和感を感じていない人たちも多い?
- 周りがネガティブなので出来るだけスポーツ関係者がポジィティブじゃなきゃ全員ネガティブになってしまうという懸念があるか?
- できれば経験した人にしかわからない価値を発信してほしいなあ

テーマ④ コロナがあったことによる影響とは?
- 人と人との接点がなくなった。開催都市やキャンプ地での国際交流もない、生のスポーツを見ることができないのでスポーツの価値を感じにくい、交流がおきない
- 大半の人は空気によって動かされる。スポーツ関心層はコロナがあろうがなかろうが試合中継を見る。それ以外の一般の人達は街に海外から人が来る、日本の良さが再発見される、そういう報道が増える、世の中のお祭り感が生まれる。今回は人の移動が制限されることで何かに触れる、これによって新しい体験や気付きがなかったので空気が変わりにくかった
- 接点が生まれることで応援する気持ちが生まれるが、接点が今回は生まれる機会がなかった。
- 空気という観点だと、五輪への期待値を裏切られた感と、コロナ対策と天秤にかけられるような状況に違和感があった。コロナ対策そのものが、エビデンスベースで話せていないため、我慢を強いられている中で五輪だけ特別扱いしていると思う国民が多かったのではないか 
- 五輪の開催と、行動や経済活動の自粛のダブルスタンダードは成立しなかった。そもそもプロ野球やJリーグのように一定の制限をした有観客で良かったのではないか?無観客でやる必要は本当にあったのか?
- 意思決定が何の軸によって決まったのか謎。ゴールがないから世論に左右されるし判断基準がないように見える。

テーマ⑤ コミュニケーションの問題が大きかったあのではないか?
- 政府のコミュニケーション不全はある
- コミュニケーションは政府の問題だけではない。スポーツ団体からのステートメントがなさすぎ
- ちゃんとポジションを取って話さないからこうなる。吉田麻也選手のメッセージは素晴らしかったけど、選手である彼にそれを言わせる時点でNGなのではないか。
- 代理店にとって都合の良い感動ストーリーに転換していたのではないか、例えば池江選手の例。復活したのは本当に素晴らしいこと。アスリートの持つ素晴らしさ、五輪の持つ価値については伝えかたには変化があってもいいのではないか? 
- 安心と安全はそもそも似て異なるので両方を並べて目指す時点でNG。安心は人のリスク許容度によるからゴールはない。安全は基準を決めれば達成か未達か判断できる。安全安心を主眼に置くとコロナ対策が成功可否の判断材料になってしまう
- 橋本会長になって、ダイバーシティなどの発信が増えた感じはした

Q: なぜスポーツ界は意見表明をしなかった?言えない圧力は存在するのか?
- スポーツ庁からの積極的な発信は期間中あったのか?何のために庁があるのか?
- 省庁などのステークホルダーとの関係性を意識して発言を自粛したように思える。スポーツのことを考えている人って誰も居ないのだなと感じてしまった。
- サッカーの場合、政府に不遜な態度を取ると最終予選の対戦国の入国や隔離措置免除などが引き出せない可能性もあるため、弱みを握られていた可能性もあるのではないか?笑

Q: どういうコミュニケーションを取るべきだった?
- 五輪はスポーツも政治も経済も国際関係も医療リソースも関わるみんなの問題なので、一元的な説明やポジションは難しい。(=立場に寄って意見が分かれて当たり前のイシュー)だからこそ、どの立場でどこまで責任を持つかをクリアにしてコミュニケーションをすべき
- スポーツの競技団体はスポーツの価値を信じて、スポーツを楽しむ環境の整備と実現にコミットすべき。それより外のスポーツを取り巻く環境に対してはステートメントを出すことや、他の業界や行政と働きかけて解決を目指すもの。前者はコミットすべきもの。後者は働きかけていくもの。責任のラインを履き違えている。スポーツは何でも実現できると思ってスポーツの人は話しすぎなのではないか?
- こういう時こそスポーツ団体が横連携してステートメントを発信するのが良かったのではないか。
-

テーマ⑥ パラリンピックは?
- パラリンピックは経済より社会的な効果が大きい。子供達への投資価値=レガシーとしてはオリンピックよりも大きい
- 実は東京五輪の成功はパラリンピックの注目に掛かっているのではないか。 多様性を認識するための大きなキッカケ、社会的な価値をもたらすと思いたい。

以上、いかがでしたでしょうか。

まだ五輪が終わって1週間、皆さんの中でも振り返る何かを吐き出してみましょう。後世にどう伝わるかではなくどう伝えるか、本質的な課題を直視しないことには過ちは繰り返されますし本当の価値は見出すことができません。きっともう少し良い未来が想像できると思います。

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