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闇の普遍性 〜村上春樹とデビットリンチ作品から考える


 現代社会では、都合良く選ばれたものだけに光が当たり、選ばれなかったものたちは覆い隠されてしまう。隠された闇は居場所を失い、無意識の深いところにどんどん沈んでいく。その闇を深いところから掘り起こし映画にしたのがデビットリンチ監督の作品「イレイザーヘッド」であり、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」である。

 前者では、ある夫婦の間に生まれた奇形児との暮らしを強烈な世界観で描く。とんでもなく気持ち悪いが、リズミカルでどこか可笑しいところもある。人類の最も普遍たる子孫繁栄の闇の部分を凄まじい創造力で描く。

 後者は納屋を燃やすという放火魔の話だ。登場人物の彼は、定期的に納屋を探し放火する。動機はなんだろうか。いろいろ考えるに、無差別放火は彼にとって1つの癒しの手段ではないだろうかと推測する。闇は無意識の深いところに沈んでいる。光と闇は表裏一体だ。光は素早く地上に上がれるが、闇はゆっくりゆったり上がってくる。闇は突然社会に現れ、大きな事件として我々に問題を投げかける。闇に出会った瞬間、緊張感と恐怖感が背筋を走る。人のもっと深いところには、もっとたくさんの闇があるのだろう。闇がないと光はない。だから、光があるということは必ず闇があるということになる。

 世の中に不安が多くなると人は癒やしを求める。山に行ったり海に行ったり、美味しいものを食べたり動物と一緒に過ごしたりする。そんな中、時折、無差別殺人や放火事件が起きている。

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