朱子学・陽明学と明治維新

 このnoteでは、朱子学と陽明学が日本の明治維新において果たした役割・意義について考察する。明治維新は、一般的には日本が江戸幕府による封建的支配体制から欧米的な近代国家への変革と捉えられる。では、維新志士たちは社会契約説などの西洋哲学を学んで近代国家建設を志したのだろうか。少なくとも前半の維新志士の中心的思想ではなさそうだ。また、民間の信仰に目を向けると、江戸幕府では檀家制度により民衆は全て仏教徒ということになっていたが、明治新政府では神仏分離令、廃仏毀釈を経て神道中心の方針に切り替わる。では、維新志士たちは神道を信仰する者たちだっただろうか。これは一考に値するかもしれない。明治維新には尊王思想というコンセプトがあったからだ。しかし、その契機となった水戸学を見てみると、好学大名、徳川光圀から始まる朱子学の系譜なのである。そして、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋などを輩出した松下村塾の吉田松陰や、西郷隆盛などは陽明学者として有名である(西郷が陽明学者と言えるかどうかは検討を要するが、少なくともそう見られていた)。ここに「朱子学・陽明学が明治維新に与えた影響」というテーマを考える動機が生まれる。表面上に見える西洋的・神道的な明治維新の本質を朱子学・陽明学の側面から捉えていきたい。

江戸時代前期までの日本の儒教受容:儒教・仏教・神道

 まず、日本の儒教受容について見ていく。
 紀元前6〜5世紀に活躍した孔子を開祖とする儒家思想は、紀元前1世紀〜紀元後1世紀に漢の御用学問として整備され、儒教として成立した。7世紀、唐の初期には経学、漢唐訓詁学の集大成として五経正義が作成され、教義が統一された。
 『論語』は日本でかなり古くから読まれていた。『古事記』によると『論語』は応神天皇のときに百済からもたらされたとあり、これが正しいかはわからないが、古くから読まれていたことは確かである。7〜8世紀、日本から遣唐使が送られた。留学生で有名なのは吉備真備や玄昉である。ここで仏教や律令の他に日本に伝わった哲学・音楽学・歴史学・天文学・軍事学等という様々な学問は儒教のことである。もちろん漢唐訓詁学も伝わっており、格の低い家では世襲でこのような学問を伝えた。これを博士家という。また、律令そのものも当然儒教・漢唐訓詁学の影響を受けており、例えば日本の律令に定められた葬儀も儒教式の葬儀の影響を受けている(また、神道の施設に儒教の用語である社や祠を当てはめた)。遣唐使廃止後も財力のあった仏教は大陸と交流を続けたが、儒教は学生を送る財力がなかったためそのようなことはなかった。結果、この時期からの日本儒教では本場中国の新しい学問を学んで帰ってくるという機会はなく、また次にそれを担うのは仏僧ということになる。
 12世紀になると朱熹が登場し、心即理説を唱えて朱子学を成立させた。 朱子学は近世中国の思想史において仏教の禅と関わりが深くお互いに影響を与え合っている(もっとも、禅に親近感は持っていたが、それでも朱子学者内で「禅」という言葉は例えば陽明学などに対する批判の言葉であったようだが)。だからこそ、朱子学が日本へ伝わるきっかけとなったのは禅僧であった。まず12世紀、栄西が宋から日本に禅宗の臨済宗を伝え、それに続いて13〜14世紀に宋の禅僧が来日することが続いた。それに伴って朱子学も持ち込まれたのだが、資料的に確認できるのは13世紀に帰国した真言律宗の俊芿である。ただし、その前に渡航していた重源や栄西にも可能性はある。中国・朝鮮と日本の大きな違いとして、宋や高麗における朱子学者は支配者階級である士大夫であり熱心に研究されていたが、日本では朱子学はあくまで禅僧が教養として伝えていたものであって、朱子学者として留学したり、重職につけるということはなかった。
 17世紀、江戸時代に入ると、徳川家康は政治顧問として林羅山を登用する。形式的には仏僧という形であったが、本人は仏教を信奉している訳ではなく、中身は儒者、それも博士家とは異なり朱子学者だった。そこから林家は世襲で任ぜられるようになり、その学派は正学とされた。ここから初めて日本で朱子学が独立し、力を持っていくこととなる。そして他にも様々な学派が形成される。朱子学に疑問を感じ、結果正学や木下順庵に続く木門などの純粋な朱子学の対抗言説として、伊藤仁斎の仁斎学や荻生徂徠の徂徠学も生まれた。ここで見ていきたいのは、純粋な朱子学者の立場を守りつつ神儒一致を考え、垂加神道を起こした山崎闇斎、好学大名として朱子学を実践し、『大日本史』編纂事業から水戸学を生んだ徳川光圀、そして日本陽明学の開祖、中江藤樹である。
 山崎闇斎は神儒一致と考えていて、儒家神道の垂加神道を唱えた(垂下は闇斎の神道風の号)。例えば『朱子家礼』(朱熹が編纂したとされる冠婚葬祭についての本)の実践に努め、日本古来の神道を結びつけて、儒教式であると同時に神道式でもあるような墓を作るようになる。もっとも、仏教式でない神道式の葬儀というのは律令に定まったもので、これは先に述べたように儒教の影響を受けているので、両者は似ていた。
 江戸時代は、武士階級では朱子学が力を持っていた。大名の中には特に積極的に朱子学を受け入れる好学大名が現れ、彼らもまた神儒一致を唱え、儒教式かつ神道式の葬儀をあげようとしたものもいた。好学大名には寛文期の三君として徳川光圀、保科正之、池田光政が挙げられる。民間では全くそのようなことはなく、寺請制度・檀家制度により民衆は全て仏教徒ということになっていた(キリシタン対策である。また、神道に関しては仏教伝来から神仏習合しているので神道単独の影響力を考えるのは難しい)。それを治めているのは朱子学者たる好学大名であるわけで、例えば岡山藩主池田光政は仏教に代わる教学として位置付けようとし、民間において神仏分離し、神職請を実施した(その後寺請に移行している)。また会津藩主保科正之は山崎闇斎に支持し、山崎闇斎を非常に重用した。また会津藩でも神儒一致の政策が取られ、彼自身の墓も神式とした。彼は1667年に江戸を襲った明暦の大火の際に迅速な措置で城下町の復興を成し遂げるなどの功績により、1668年には松平を名乗ることを許されたが固辞。そして彼の子孫は松平を名乗り、彼は遺訓で将軍家への絶対的忠誠を残す。これが、1868年の戊辰戦争、会津の松平容保へと繋がる。
 そして寛文期の三君の最後の一人は水戸藩主、徳川光圀である。彼は保科正之と共に全国に先駆けて藩内で殉死を禁止した大名であるが、これも儒教精神に基づくものであった。戦国大名の家来は大名個人に仕えていたのだが、これを藩という組織に忠義を尽くすものと変えたのだ(これも「お国のために」という思想に繋がっていくという見方ができるのだが)。そして、藩財政の多くを費やして『大日本史』編纂事業を始める。これは後世の国体論者の主義主張とは異なるところから始まっており、それは当時の国際標準に合わせた形式の歴史書を東アジアの共通書記言語、漢文で書き記すという、国際性に富んだものである。徳川将軍家も天皇の臣下にすぎないという考え方、歴史認識に基づいた歴史書である。この本では南北朝時代を南朝中心に描き、そして北朝への吸収合併をもって終結している。そして、明治以降も南朝の楠木正成は忠臣の代表として、北朝の足利尊氏は逆臣の代表として扱われることになる。この『大日本史』編纂事業が朱子学の一派であり、大義名分論などを特徴とする水戸学を生んだ。『大日本史』編纂事業は一度中弛みし、その前後で前期水戸学と後期水戸学に分けられるのだが、この前期水戸学の段階ではのちに尊王攘夷や国家神道に繋がったとされる日本独尊主義的色彩は見られない。そして、後期水戸学は江戸に訪れた吉田松陰に影響を与えることになる。
 江戸時代の少し前に遡る。15〜16世紀に王守仁(号は陽明)が朱子学における理を外界ではなく心の中に見出す心即理、致良知を唱え、また朱熹の学習者が段階を飛び越えてまだ学ぶべきでないこと忌避する傾向を批判し知行合一を唱え陽明学を成立させた。(朱子学を形式主義、知先行後と考えるのはあくまで批判者であって、朱子学者ではない。)さらに陽明学は王守仁の死後左右に分派した。16世紀のうちに陽明学左派から李卓吾が登場し、庶民教育を重視して人気を得た。李卓吾は王守仁の良知説を推し進め、儒教批判に至るが、過激と見なされてしばしば迫害された。最期は1602年に逮捕され、獄中で自殺した。
 明代後半、16世紀から17世紀前半にかけて、朱子学がそうであったように陽明学者と禅僧の交流も盛んだった。そして、日本への陽明学の伝播もまた禅僧を通じて起こった。しかし、そこにおいては朱子学・陽明学の相違が突き詰められてはいなかった。そもそも中国においてもそれほど異質なものとは言えないということもあるが、室町時代、日本での朱子学の担い手は禅僧であり、その理論的な相違点にまで至らなかったということもある。(この傾向は日本の朱子学者・陽明学者の第一・第二世代である藤原惺窩や中江藤樹などにも見られる(朱王折衷)。)
 17世紀、江戸時代初期に林羅山など朱子学者が生まれた頃、中江藤樹も最初は朱子学を学習していた。しかし、やがて朱子学に疑問を抱くようになり、そこで陽明学に出会うのだが、41歳で没することになる藤樹が陽明学の書物初めて接したのが34歳、王守仁自身のものを取り寄せて読んだのは37歳の時と晩年であり、その思想形成に陽明学が作用したわけでは必ずしもなく、元々の持っていた思想が陽明学に近かったと言える。こうして、中江藤樹は日本陽明学の開祖となった。しかし、朱子学が圧倒的な勢力を誇ったのに対して陽明学はその後力を失う。藤樹の思想は江戸時代後期の大塩平八郎の乱に引き継がれることになり、これがきっかけで陽明学が明治時代に注目されることになり、1899年(明治32年)新渡戸稲造『武士道』に繋がっていく。また、李卓吾の思想は安政の大獄で牢にあった吉田松陰に影響を与える。
 以上のように江戸時代前期までの日本の儒教受容を振り返ってみると、当初の興味である神道との関わりに関して解き明かされたように思える。そして、ここから明治維新と教義としての朱子学・陽明学の関わりについて見ていく。


「維新志士」と『武士道』、陽明学

 維新志士たちは倒幕を目指した。彼らはこれは革命とは呼べない。なぜなら儒教で「革命」は王朝交代を意味するが、これは天皇の政治復権だからである。当初「御一新」と表現されていたこの体制変革はやがて「維新」と表現されるようになる。「維新」の出典は『詩経』に載っている、周の王家を讃える詩句である。出典としては『詩経』なのだが、採択された理由はこの句を朱子学の四書『大学』の「新民」に対する伝で引用していることが大きい。

周は旧邦と雖も、其の命維れ新たなり。 『詩経』 

『論語』には行為主体が生命をかけて何かをなすべきことについての訓話もあり、この主語に「志士」とある。

志士・仁人は、生を求めてもって仁を害うことなく、
身を殺してもって仁を成すことあり。 『論語』

朱熹の『論語集註』ではこう解釈される。「理として死ぬべきときに生きながらえることを求めたりすると、その人の心には落ち着かない不安が生じる。これは心の徳をそこなっているからである。死ぬべきときに死ぬならば、心は安らかであり徳は保全される。」また、朱熹が弟子からの質問に答えた語録『朱子語類』にこのことについての記載がある。大意は「人間としてなすべき事柄が眼前にあるとき、それがどのような効果をもたらすかを思案熟考する(仁とか性命之理とか)のではなく、ただなすべきこととしてなせ」ということだ。
つまり、「「殺身」は、やむにやまれぬ心情・信条から、自発的にそうせざるをえない行為なのでみずからの良心に基づいて普段通りになすべきことをなせば良い。しかし、いざという時に逡巡すると、「害仁」すなわち自己の人間性を傷つけることがある。こういうことがないように、日頃の覚悟が肝心であり、これこそが人間としての修養を積むということである」ということで、王守仁もこの章の理解については朱熹と同じである。この「殺身成仁」は「武士道」と近いように感じる。実際に三島由紀夫は武士道を表す表現として「殺身成仁」を好んで用いていた。ここで取り上げたいのが1899年(明治32年)に新渡戸稲造が英語で著した『武士道』である。これは西洋人に武士道を説明する本であり、武士道は西洋社会でキリスト教道徳が果たしているのと同様の役割を担っているという主張である。ここでは武士道は神道・仏教(特に禅)・儒教の三教(中国の三教から道教を抜いて神道を入れたもの)の思想があるとする。そして注目すべきは、武士道という観点からは儒教において孔子の教えの正統的継承者として、朱熹ではなく王守仁をあげていることである。すなわち、武士道精神は、朱子学ではなく陽明学の中に見られるという。実際には儒教の中で江戸時代に圧倒的な勢力を持ち、広く武士階層に浸透していたのは朱子学だった。新渡戸はもちろんそのことを知っていたと思われる。ここで彼が陽明学を選択して西洋人に紹介したのは何かしらの意図がある。それについて考えるときに重要となるのは、新渡戸はキリスト教信者で、それもプロテスタントだったことである。高杉晋作は「キリスト教プロテスタンティズムは陽明学だ。日本に革命をもたらす教説となるだろう」ということを言っており、内村鑑三は主語と述語を入れ替えて「陽明学はキリスト教なのです」と紹介した。新渡戸稲造が『武士道』で説いたののも同じ理屈だった。明治のキリスト教信者たちの見方によると、朱子学は形式主義、陽明学は心情主義で、彼らは形式主義を嫌い、心情主義に与する(もちろん朱子学者は形式主義を自称しない)。そして、そのような19世紀の陽明学のイメージを作ったのは大塩平八郎であった。大塩の思想には「太虚」というものがある。これは張載によって特筆された概念で、彼の宇宙観・生命観を表現する語である。そして、より直接的にこの思想を学んだのは大塩より200年ほど前、江戸時代初期の中江藤樹からであった。大塩は心と太虚の一致を説き、それに基づく死生観を打ち立てた。これが中江藤樹から繋がる陽明学の影響である。三島由紀夫は1970年の三島事件の数月前に「革命哲学としての陽明学」という文章を著して大塩事件を取り上げている。三島や、そもそも大塩の陽明学解釈が正しかったかはさておき、陽明学がこのような影響を与えたことは事実である。そして、「殺身成仁」の主語は「志士仁人」なのだ。この章では、「維新志士」と言う場合、儒教的に、また明治において、どのような思想が組み込まれているかを考察した。


水戸学の「尊王攘夷」と武士道

 明治維新は尊王攘夷論を契機とするが、これを強く持っていたのは水戸学である。水戸学は水戸藩主徳川光圀が始めた『大日本史』編纂事業から生まれた思想だが、この尊王攘夷に関しては朱熹、さらに孔子まで遡ることができる、儒教に元々ある思想である。歴史書『春秋』は孔子が編纂したと考えられている。孔子は其の記録の仕方を工夫し、事件の当事者達を批判したのだと考えられた。『春秋』の本文を解釈する学問を春秋学という。春秋学の「尊王攘夷」という考え方は朱子学の中で特に強調される。つまり、朱子学では大義名分論が力説され、君主は常に尊く、中華の文化は守らねばならないと考えられた。朱熹の頃には、漢族の宋こそが正統で、異民族の遼、金、蒙古(元)を排斥するために使われた。17世紀日本の光圀はこれを受け継ぎ、王を天皇として『大日本史』における観点にしたのである。そして、19世紀日本の後期水戸学では、将軍ではなく天皇こそが王であり、漢字や儒学を解さない西洋人を列島に来させないことを意味した。また、光圀の殉死禁止令に見たように個人に尽くす思想から藩などの組織に尽くす思想への転換は、国体論に繋がった。水戸学へのこの数十年来の負のイメージは、この後期水戸学での藤田幽谷・東湖父子、会沢正志斎、そして彼らの主君であった徳川斉昭らに代表される、大義名分論を振りかざした尊王攘夷論・国体論によってもたらされた。この思想を持った水戸藩浪士が、将軍継嗣問題では南紀派(水戸藩は一橋派)、また日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約に孝明天皇の勅許を得ないまま調印した開国派の大老井伊直弼を桜田門外で暗殺することになる。これが彼らにとっての「殺身成仁」であった。また、吉田松陰が感銘を受けたのも彼らの思想であり、松下村塾の長州藩の維新志士たちは、いわば水戸学者の孫弟子であった。その中から、動乱を生き残った志士たち、すなわち伊藤博文や山県有朋など明治の元勲が多数輩出する。また、この水戸学の流れは明治の武士道ブームに繋がり、日露戦争の勝因を日本に根付いた武士道精神に求める見解が説かれる。ここで新渡戸稲造の『武士道』による陽明学的な流れと、水戸学の尊王攘夷論、国体論という朱子学的な流れが「武士道」で合流することになる。そして、こういった水戸学の延長線上に明治以降の国家神道や軍国主義を措定することが可能である。すなわち、1945年までは大日本帝国の国体を顕彰した教説として特権的地位を与えられ、敗戦後は価値評価が逆転して諸悪の根源とみなされ江戸思想史において擁護しづらい地位に追いやられた思想の源流がこの水戸学と言えるのである。話を明治に戻すと、水戸学は朱子学から出発し、「武士道」という観点で陽明学と繋がることなった。もう一つ、水戸学と陽明学を繋ぐ観点がある。それは「吉田松陰」である。


吉田松陰と水戸学・陽明学

 吉田松陰は幕末に長州藩で松下村塾を開き、多数の維新志士を輩出した人物である。彼は陽明学者と言われているが、そう分類されるようになったのは明治になってからである。実際に出会った人を見ていくと、若い頃に出会ったのは水戸学であり、思想系譜のなかで位置付けようとするなら水戸学であろう。彼は評価も様々である。徳富蘇峰は彼を「日本国を荒れに暴らしたる電火的革命家」と形容し(儒教的に「革命」がまずいなら陽明学的「維新志士」と捉えてもよいかもしれない)、戦時は水戸学系の思想の高まりから武士道の象徴として祭り上げられた。戦後は教育者としての側面が取り沙汰され、現在は過激な陽明学者としての側面も復活している。
 それでは吉田松陰こと杉虎之助の生涯を見ていこう。彼は1830年、長州藩士杉百合之助の次男として荻に生まれた。幼くして親戚筋の吉田家に養子に出され、山鹿流兵法師範となる。21歳の時に九州に遊学。翌年、今度は江戸に赴き、さらにその翌年、会津・秋田・仙台等を経巡っている。この度は藩の正式な許可を得ていなかったため、荻に送還のうえ士分を剥奪される。吉田家は家禄を召し上げられたのだから、家名に傷を付けたとんでもない養子ということになる。ただ、藩主毛利敬親は彼の将来を嘱望していたらしく、実家杉家にお預けとしながらその年には諸国遊学を許している。1853年、再び江戸へ。そして6月3日、「浦賀沖に黒船四隻現る」の報は、すぐに松陰も知るところとなり、早速その見物に出向いている。9月には停泊中のロシア船に乗り込んで密航しようと長崎に赴くも機を逸し、翌年、再来したペリー艦隊の船に伊豆下田で乗り込み、アメリカ行きを頼んだが拒絶される。そのことをわざわざ自首して語って捕縛され、長州で獄に繋がれる。この一件で師の佐久間象山に累を及ぼす。象山はこのあと長く信州松代に幽閉され、国家の大事に参与できなかった。象山はのちに赦されて京に赴き、攘夷派によって路上で殺害される。ここから野山獄、実家の幽室、松下村塾で後進を指導し、また『講孟談話』を著した。彼は「草莽崛起」を説いた。念頭としていたのは次の『孟子』の文言であろう。

国に在るを市井の臣といい、野に在るを草莽の臣といい、
みな庶人という。 『孟子』

孟子の時代、「国」とは諸侯の都のことである。都会にいるのが市井の臣、農村にいるのが草莽の臣である。孟子の原意は、そうした庶民も諸侯に仕える者だから大切にせねばならないという、為政者向けの発言であった。しかし、朱子学における解釈の転回を経て、この文言は、庶民であっても臣下としての自覚を持つべきだという、一般読者向けの発言に変質した。陽明学の中ではさらに一歩進めて在野の者でも国事を議する資格を持っていると主張する傾向が生まれた。松陰は江戸や京都ではなく、長州荻に住む仲間を「草莽」と表現した。そして、『孟子』解釈の歴史の延長線上に、彼らの「崛起」を提唱した。そんな中、大老井伊直弼や老中間部詮勝は勅許を得ないまま安政の五カ国条約に調印し、将軍継嗣を徳川家茂に決定した。そしてそれに反対した者を弾圧する安政の大獄を行う。安政の大獄のさなか、松陰はふたたび野山獄に入牢し、やがて江戸に連行される。安政の大獄で牢にあり、いつ最期を迎えるかわからない状況で出会ったのが李卓吾であった。ただ、状況的に松陰は陽明学を学んだことによって尊王攘夷の志士になったわけではなく、彼の気質がそうであったから陽明学に惹かれただけであろう(李卓吾も体制側に危険人物と目されて、獄中にあった折に自刃して果てている)。さて、安政の大獄の取り調べにおいて、問われてもいない老中間部詮勝暗殺計画を自白、ついに斬首刑に処された。1859年。享年30。松陰の弟子たちは「草莽崛起」を実践した。松陰が大きな期待を寄せていた久坂玄瑞や高杉晋作は英国公使館を焼き打ちし、米仏と関門海峡で戦争をする維新志士だった。しかし、久坂玄瑞は禁門の変で落命し、高杉晋作は戦い続けたが結核で亡くなったことで、ついに彼らは維新の成就を見ることはできなかった。そして生き残った伊藤博文や山県有朋が、明治政府の中枢で活躍することになる。1882年、東京世田谷に松陰神社が建てられ、1907年には伊藤博文らの計らいで荻にも松陰神社が建てられる。また、靖国神社の英霊にもなる。戦争中、松陰は武士道の象徴的存在に祭り上げられたが、確かに彼は大陸進出政策の草分けであった。敗戦後、これとは異なり、日本近代化の先駆者として捉えた本が現れ、教育者としての側面で語られることとなった。
 これが吉田松陰である。彼は「やむにやまれぬ大和魂」と言ったが、彼の行動の根幹は尊王思想であった。天皇にふたたび実権を取ってもらうことが大事で、「日本の夜明け」は二次的なものである。また、彼の行動力や自白は陽明学的なところを感じさせる。「知行合一」、「自らが善しと信じたことは必ず他人もそう信じてくれる。何も悪事を陰謀するのではないから当路者に秘する要はないと考えた」といったところだ。しかし、繰り返すが彼は陽明学に出会う前からこのような気質だったのだ。また、陽明学の「知行合一」が重んじられるのは明治維新のあとである。ほとんど力を持たなかった陽明学を有名にしたのは「知行合一」を重視した大塩平八郎だったが、江戸時代では彼のせいで陽明学は危険思想と見なされていたので、陽明学としては大塩とは異なる側面を推し出していた。そして、戦後の松陰のイメージは尊王思想の部分が隠されて、この「行動」だけがクローズアップされている状態なのである。
 このように朱子学から出発した水戸学と陽明学が吉田松陰の中で一つになり、日本に様々な影響を与えたことを見てきた。そして彼は国難の殉難者として靖国神社に英霊として祀られるわけだが、維新志士の中で靖国神社に祀られていない者もいる。その一人が西郷隆盛である。


西郷隆盛にみる儒教の影響

 西郷隆盛は陽明学者と言われているが、これは検討を要する。だが、少なくとも儒者としての思想を見いだすことはできる。彼は非常に有名だが、肖像も名前も本来のものではないとされる。有名な肖像は西郷従道と大山巌を混ぜ合わせたものである。隆盛は諱だが、本来の諱は隆永である。また、通称西郷吉之助であった。そして、天皇が下ろした文章に父親の諱で記載され、訂正するのは畏れ多いと西郷隆盛になる。以後常に隆盛として進める。西郷隆盛は島津斉彬の腹心として、将軍継嗣問題では一橋派として徳川慶喜を将軍後継者に擁立しようと活動したが、そのために安政の大獄で追咎対象となり奄美大島に逃れた。1864年に島津久光に召喚されて京都で朝廷工作に奔走、禁門の変を経て長州征伐にいたるまで長州藩の敵方として活躍した。1866年の薩長同盟締結に尽力、以後戊辰戦争に至るまでの倒幕運動で中心的役割を果たした。なかでも勝海舟との江戸開城談判が特記される。そして新政府内で征韓論を唱えるが政争に破れる。これを契機に明治6年の政変として下野、鹿児島に戻り、ついに1877年に政府に対する反乱(西南の役)を起こして死ぬことになる。しかし、反乱軍の首魁だったにも関わらず1889年の大日本帝国憲法発布の恩赦ですぐに名誉回復、それより前の岩村吉太郎1878『皇国三傑伝』ですでに称えられている。政府樹立の功労者として讃えられ続けてきた。その上で、靖国神社の本殿では祀られていないのである(南洲神社では主祭神として祀られている)。この点については次の章で触れる。
 ここでは西郷の思想を見ていく。座右の銘は『南洲翁遺訓』第24条にある「敬天愛人」であったとされる。以下のような文章である。

道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、
天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、
我を愛する心を以て人を愛する也。 『南洲翁遺訓』第24条

西郷隆盛は中村正直の文章で敬天愛人という言葉を知ったと思われる。中村は儒者でもクリスチャンでもあったが、中村の文章だけからキリスト教的な思想を読み出すことはできない(「敬天」をキリスト教だとする説に対して)。西郷が中村の本で感じたのは儒教教義だった。中村は教育勅語の起草を依頼されたものの、井上毅がその内容が儒教的で偏向しており適切ではないと批判したためお蔵入りとなり、代わりに井上の草稿をもとにした勅語が発布された。また、『南洲翁遺訓』第9条にも儒教の思想を見て取れる。

忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、
万世に亙り宇宙に彌う可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、
西洋と雖も決して別無し。 『南洲翁遺訓』第9条

「忠孝仁愛教化の道」とはまさしく儒教の眼目である。仁愛は『孟子』にあるように、上の立場にある者がとるべき心がけ、態度である。
仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬ふ。
人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ。 『孟子』
それに対して「忠孝」は下の立場にある者が主や親に対して実践すべき倫理である。そして、そしてそうなるように「教化」するのが為政者の使命である。これは「万世」すなわち時間的に恒久性をもち、「宇宙」すなわち空間的に普遍性をもつ。最後に、道は人為的な決めごとではなく、自然界におのずからあるものであるから、西洋であっても同じ内容のはずだと締める。さらに、道の目的たる敬天愛人を不変かつ普遍にするという発想は教育勅語と相通ずるところがある。

斯ノ道ハ(中略)之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、
之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 『教育勅語』

道と言われている内容は、勅語でこの前の段落全体を受けているのだが、なかでも眼目となるのは「克ク忠ニ克ク孝ニ」とされる儒教倫理である。忠孝こそ国民道徳の根幹をなすというのが、古今・中外を問わずどんな社会にも当てはまるものであるという前提に立っている。井上毅が(クリスチャンでもある)中村原案を儒教的だと拒絶し、改めて中立的な価値観に立って外国にも適用できると考えて書き直した自信作にして、このような考え方に基づいていたのである。


明治維新を契機とする靖国神社と儒教

 まず靖国神社は第二次世界大戦のいわゆる戦争犯罪人に関するテーマで取り上げられることが多いが、そもそもルーツは戊辰戦争と西南戦争だ。1868年の戊辰戦争の翌年1869年に東京招魂社として建てられたが、1877年の西南戦争を契機に、その翌々年の1879年靖国神社と改称されて今に至る。ここでは主にこの明治維新の視点から靖国神社を考える。
 考える動機は、過激派とも言われる吉田松陰が英霊として祀られているのに、維新の三傑とも称される西郷隆盛が祀られていないことだ。この一般的なイメージとの違いを理解するために、水戸学の契機である『大日本史』で逆臣とされた足利尊氏と西郷隆盛の共通点を考える。確かに一般的なイメージこそ足利尊氏と西郷隆盛ではかなり差があるように思えるが、置かれいる立場は非常に近いのである。まず、それぞれ建武中興と明治維新において、幕府を倒して天皇親政の世に戻す事業のリーダーである。また、尊氏の「尊」の字は後醍醐天皇から賜ったもので、二人とも天皇からもらった諱を大事にする感性を持っている。そして最後に、新政府に失望して反乱を起こした点である。そして水戸学が南朝正統論を展開することで尊氏は逆臣の典型となった。つまり、西郷隆盛も形式上逆臣であるから、靖国神社に祀られないのである。
 この水戸学の「逆臣を貶める」という感性は非常にシビアである。1863年、14代将軍徳川家茂が上洛するにあたって、上洛直前に尊王攘夷派によって京都の室町幕府の等持寺に祀られていた尊氏、息子の義詮、孫の義満、この足利三代将軍の木像の首が引き抜かれ、賀茂川の河原に晒し首にされた。これは征夷大将軍として天皇の臣下でありながら、足利三代が天皇をないがしろにしたことを批判し、「お前もこうなりたくなかったら、孝明天皇に忠義を尽くして攘夷を決行しろ」と暗に徳川家茂を脅迫しているのである。この感性は水戸学にとどまらず、儒教の攘夷思想に元々あるものである。朱熹の南宋の時代、夷狄である金と徹底的に戦うべきだと主張した岳飛は、秦檜によって死に追いやられ、秦檜は金と講和した。秦檜の死後、主戦派が主流となり、岳飛は英雄として祀られた。そして、岳飛廟には謝罪する秦檜像が建てられ、これに唾を吐きかける文化が生まれた。これが攘夷思想における逆臣の感性である。また、靖国神社のキーワード、祭神の呼び名である「英霊」について。英霊は水戸藩の家臣藤田東湖の「和文天祥正気歌」という漢詩から採られている。この「正気の歌」は南宋が滅んだ時の宰相文天祥が作った漢詩で、その後吉田松陰など様々な人が模倣作を作っている。「英霊」は藤田東湖の「和文天祥正気歌」の「英霊未嘗泯」という句から採っている。そしてこの詩は「この宇宙には正しく大いなる気があり〜」から始まるのだが、この「気」が「英霊」なのである。朱子学における「気」は人間の構成要素でもあり、死ねばばらばらになるのだが、英霊の場合は滅びないのである。このように、靖国神社の思想背景には儒教が強く反映されている。
 最後に、この靖国神社の思想が「日本古来」かという観点に立ってみる。そもそも神道が儒教の影響を受けていることは確認したので、ここで考えたいのは「日本古来の仏教の考え方」である。仏教には「怨親平等」という考え方があり、例えば円覚寺は蒙古襲来の戦死者を敵味方の区別なくも一緒にお祀りして供養する、菩提を弔うために創設された。また、南北朝時代、北朝の夢窓疎石は南北朝の動乱で戦死した人を敵味方問わず菩提を弔うため、各国に一寺ずつ安国寺を建てようとする政策を立てている(皮肉にもこの寺の名前も「やすくに」と読める)。この「怨親平等」が日本古来の仏教の考え方であり、「逆臣を貶める」儒教の考え方とは相反する。
 冒頭で述べた通り明治時代は神仏分離、廃仏毀釈を経て神道中心の方針に切り替わる時代である。そして、見てきた通り、江戸初期から登場した朱子学者によって神儒一致がはかられ、幕末から明治には水戸学の影響で「尊王攘夷」「国体を守る」「逆臣を貶める」「英霊の気は滅びない」といった価値観が強くなった。この時代に建てられたのが靖国神社なのである(もっとも、廃仏毀釈の観点からは日本古来の価値観は転換しているが、神道自体は律令から儒教の影響を受けており、神儒一致できるほどでもあった)。そして、そこに祀られている英霊たる「維新志士」は水戸学の思想を持ちながら陽明学の行動原理で「殺身成仁」し、武士道を体現した。これが西洋的・神道的な明治維新の本質を朱子学・陽明学の観点から検討し、朱子学・陽明学が明治維新に与えた影響を考察した結果である。


参考文献:
小島毅『儒教が支えた明治維新』晶文社 2017


小島毅『志士から英霊へ 尊王攘夷と中華思想』晶文社 2018


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