自由を捨てる日

現代社会は、いま歴史上の大きな曲がり角にさしかかっている。現代資本主義は、まず地球を消費し尽くそうとしており、また、人間社会が近代にいたってようやく自覚し確保しようと試みてきた「人間的自由」を、再び奪い去ってしまうかもしれない。

(『哲学は資本主義を変えらえるか ヘーゲル的哲学再考』 竹田青嗣)

資本主義では未来世代の資源を消費し尽くすことになるかもしれない。少なくとも、必要な資源がその状況にさしかかれば、価値は高騰し、実質的に一般の人々はその資源を失い、省資源化が推進される。

また、ゴミを処理する場所を失ったり、環境汚染に耐えきれなくなることで、少なくとも「大量消費する自由」はなくなるかもしれない。

資本主義から視点を変えて、正義論ではどのように考えていたか見てみる。

格差原理と世代間の正義
格差原理が要求するソーシャル・ミニマムの水準は、どのくらいだろうか。この論点は、世代間の正義、とくに社会全体での貯蓄水準につながる(ロールズ 2010: 第44節)。ここで言う貯蓄には、機械等の生産手段への投資だけでなく、教育への投資などもふくまれる。
一方では、ソーシャル・ミニマムの水準が高すぎると、各世代は次世代のために貯蓄できない。だから、次世代は、所得と富という社会的基本財を十分に受け取れなくなってしまう。他方では、ソーシャル・ミニマムが低すぎると、各世代は次世代のために大いに貯蓄できるが、世代内では最も不利な人々の利益を最大化できなくなる。

正義にかなった貯蓄原理
最も不利な人々の利益と次世代の利益という2つの要請をともに充たそうとするのが、正義にかなった貯蓄原理である。ロールズは、正義が求める貯蓄率を明示していないが、一定範囲の貯蓄率が正義にかなうと考えていた。正義にかなった貯蓄原理は、格差原理への制約となる。
経済発展が起こる前の世代は貧しく、貯蓄が難しいから、正義が求める貯蓄率は低い。経済発展後の豊かな世代には、より高い貯蓄率が求められる。そして、正義にかなった社会の基底構造が実現したら、正義にかなった貯蓄原理は、役目を終えて効力を失う。

(『正義論 ベーシックスからフロンティアまで』 宇佐美誠 他)

未来世代へ貯蓄すべきだ。そして、そうなると世代内の最も不利な人々の利益と対立するから、一定の割合にすべきだ。という主張だ。

あとは功利主義では「未来世代を母数にカウントしないと完全に未来世代から搾取する結果が得られ、逆に未来世代を平等に母数にカウントするとほとんど今の生活が維持できないほどに未来の優先順位が無限に上がるので、未来世代の効用は割引して考える」みたいな考え方がある。まぁ結果的にロールズ正義論と似たような結果だと思う。

しかし、資源や環境に限界がある以上、これらの考え方では「ジリ貧」だ。ちょっとずつ未来世代が不利になる。結局自分たちの世代が一番重要で、「ちょっとずつ」未来世代を貧しくする。なんという終末論だ。

いや、資源や環境の問題そのものはまだマシなのかもしれないと最近思い始めた。持続可能な発展=マテリアルフローをうまく調和させること(それも曖昧で非常に難しいことだが)という方向性はわかる。

(ちょっと話は戻るけど、世代間闘争であることをわかってないのかグレタさん批判が非常に醜いものになっている。環境問題のリーダーは当然子供であるべきで「利用されている」とかは全く的を射てないし、「大人を教育する必要」はあるに決まってる。最初のプレゼンで出してきたデータも国連の大本営発表と全く同じだ。何が「変な活動家/団体」なのか。たかだかプレゼン技術批判と「自分も環境配慮がない」などという屁理屈で騒ぐのは見てて恥ずかしいので大概にしてほしい。)

国連がSDGsとかキャンペーン張ってれば本当に実現するか、企業や多くの人が大量消費をやめるだろうかという話だが、マシと言っても限りなく黒に近いグレー。いまだに大量消費する自由もある。一方、テクノロジーがマテリアルフローを改善したりエシカル消費が広まったりもしている。

可能性としては、多くの人が無理なく大量消費をやめられるのならその自由は喜んで捨てられるかもしれない。今の資本主義や正義論のままで実現できている。可能性としては。

しかし、それを成功させるために、今よりも優先度を上げることを考えるなら、新しい世代間の正義そのものや、それを反映させた仕組みを生み出す方がよっぽど困難なのではないか、という懸念がある。

自由といえばもっと様々な人権が考えられる。一つは、人権の点からポジティブにも捉えられる少子高齢化だ。(実際『ファクトフルネス』ではかなりポジティブに捉えられていたと思う)

子供を持たない自由もある。この貧しくなっていく国で、教育費を一人っ子に絞る自由もある。自分もこの自由を享受して選択したいと思う。でも、そうなると、おそらくまだ生まれてない世代の数的優位だけはもう絶対に残してあげられない。

シルバー民主主義とか揶揄されているが、これも別に元々の民主主義のコンセプトは成立している。お年寄りが多い国でお年寄りのいい暮らしを目指して何が悪いのか。

民主主義と言ってみたが、ビジネスの例としてテレビでも、ターゲットはもちろんマジョリティーだ。「あの芸能人は今」とか「モノマネ王選手権」で真似されている歌手とか、正直世代が上すぎてわからん。でも我々の世代は少ないので仕方ない。若者がテレビを見ないのもそうだが、それ以前にマーケットサイズが小さいし、小さくなっていく。ターゲティングする理由がない。もしかしたら数十年後は自分たちがターゲットになっていて、(自分たちよりもっと少ない)下の世代にはわからないネタをやり続けているかもしれない。テレビの時代が終わるとかなんとか言われているが、マスマーケティングとしては普通に冷静な判断だ。

さて、改めて政治はそれじゃダメだろうか。貯蓄原理(教育予算)と最も不利な人々の利益(社会保障費)のバランスがどんどん前者に傾く。確かにご年配が多いならご年配が快適な国にしたらいいかもしれないが、学生や生産人口を苦しませすぎると対外的に弱くなり、人材も技術も流出し、そもそも国が滅びるかも。環境・資源問題解決も、当事者意識の欠如から推進する機運がなくなるかも。

じゃあ選挙権定年制か。いや、ちょっとした効果しかないと考える。我々の願望は正確には「自分たちの世代の利益」より「自分たちの人生設計への利益」に働いていると考えているからだ。

つまり、自分が若者だとして、教育を大事にする政治家に入れてすぐリターンが返ってくるかわからない。もうちょっと現実的には「自分がするかどうかわからない結婚と子育て」と「高確率で長生きするが、所得も年金も保険も信用できない貧しくなっていく国での老後の安心」が天秤にかかっているとして、"普通"どっちを選ぶか。だから、「老人が多いからシルバー民主主義」というのが浅はか(こんなもんナチズムの敵の作り方と変わらん)で、正確には「みんな子供持つかは自由だけど高確率で長生きする民主主義」だと思っている。

繰り返すが、僕個人は「だから子供作れ」と言っている訳ではない。ぜひこの選択の自由、人権を享受したいと思っている。テレビのように問題を「瞬間の年齢の分布」だけでなく、「それぞれの人生設計」まで考えると、若者ですらお年寄りに優しい国を目指す理由があると言っているだけだ。

もう少し暴力的に言うと、結局、未来世代だなんだと言っても、資源も環境も自分が生きている間もてばいいし、国力の衰退とかも自分がよっぽど損を被らない限りゆっくり進んでくれて構わない。子供を持つかは考えどころだけど、自分の老後へのサポートと比べれば贅沢品と捉えざるをえない社会の価値観だろうということだ。しかも内容的に将来世代そのものというより、まず親世代がかわいそうという。(いや、実際かわいそうなんだけど)

さて、本題まで一般化したい。既存の人権や数の論理は、先人が血を流して獲得したものだとしても、ジリ貧と未来世代への冷遇、さらに未来世代を作ろうとする人々への冷遇を生んでいる。では、大量消費の自由を奪うように、未来世代のために現代の自由を制限するべきか。「"人間中心"から"地球中心"」というのはどちらもかっこよく言い過ぎで、個人の放縦と全体主義ならどっちも嫌な感じだ。

ひとつ考えなくてはならないと思うのは、「自ら物質的貧しさ、不便さを取りに行くには、どのような哲学が必要か」ということだ。(そんなニュアンスのことを言ってる友達が複数人いて、この文脈ならどうだろうと思うだけだが。)物質的豊かさも競争原理も進歩主義も、手放すと言うだけなら簡単だけれど、大体貧しさ、敗北、不便というのは大体想像を絶する悲劇だ。その上で、そこに向かわねば、新しい自由はないのかもしれない。新しい生産・消費文化と、物質的に貧しくて精神的に豊かな老後を受け入れないと、「人間的自由」は再び奪い去られるかもしれない。そう考えると次は老荘思想とかちゃんと勉強しないといけないかも。

人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。
要するに、各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。そして、自分が譲りわたすのと同じ権利を受けとらないような、いかなる構成員も存在しないのだから、人は失うすべてのものと同じ価値のものを手に入れ、また所有しているものを保存するためのより多くの力を手に入れる。

(『社会契約論』 ルソー)

一旦失って、より自由になる、と言えばルソーのこの部分を思い出す。もう一度全てを譲りわたすことでより自由になる考え方、そして社会の仕組みが考えられないだろうか。抽象的だが。このルソーが『人間不平等起源論』でものすごく「原始」に憧憬を抱いているのがまた面白い。彼も本当は近代社会が嫌で嫌で仕方なかったのだ。

現代の哲学に代わる「原理」が思いついている訳ではないが、それを手に入れるために、リベラリズムを批判する、少し"危険"に見える思考もしていかなければならないと考えている。竹田青嗣さんは先の本の冒頭で

現代思想は、およそ一切のものを、考えられる限りのさまざまなレトリックで批判し尽くした。しかし、現代思想自身は何らかの新しい社会原理とその構想を提出することはできなかった。
現代のポストモダン的批判思想は、近代社会の本質を適切に捉える前に、これを相対化し無化しようとした。

と述べているが、まさにこの"レトリックではない原理"を考える自己、また世代でありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?