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オタク・陰キャ論 〜生存戦略としての自己卑下〜①

「私はオタクであり、陰キャである。」この一言には本来強烈な自己卑下の意味が含まれている。いや、含まれているべきだった言葉である。最近、「オタク」を自称する著名人やアイドルを見かけることは珍しくなく、周囲で陰キャを自称する人も増えてきただろう。2024年現在、私は17歳である。丁度「陰キャ」という言葉が生まれ、浸透するまでの流れを学生として肌で感じた世代になるわけだ。「オタク」に関しては生きているのか死んでいるのかわからない状態であり、我々はこれら2つに代わる「何か」を探している。
「推し」文化が大衆化し、サブカルチャーとも言えなかったはずのインターネットの「恥部」というべきものが、今や地上波のゴールデンを闊歩している。いわゆるZ世代に分類される私だが、メディアが発信するZ世代像などには、やはり強烈な違和感を覚えざるをえない。
本稿は私の浅い人生経験から情報を絞り出し、現在の「ポストオタク」というべき存在を考えるものである。
※本稿が筆者の個人的な意見であることに留意していただきたい。


オタク

オタクは蔑称という“前提”

オタクが元々は蔑称であるということを知らない人がいると聞いて驚いた。世間的に現代のオタクは「サブカル趣味を持つ人」や、「なにか好きなものがある人」くらいの認識に落ち着いてると言っても過言ではない。「オタク」は元々中森明夫氏が発明した言葉とされ、彼が書いたコラムシリーズ「『おたく』の研究」に由来する。

この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達を『おたく』と名づける

『おたく』の研究

「『おたく』の研究」は今見ると泡吹いて倒れそうなくらいのオタクに対する批判、あるいはただの悪口みたいなことが綴られており、流石にこれは当時としてもやりすぎとのことで、「『おたく』の研究」はたった三回で終わってしまった。しかしこのオタクの蔑称的用法は的を得ていた。そして、この「蔑称」というのが重要なのである。結論から書くと、オタクを蔑称として固定化したことで、日本という国全体に「オタク共同体」が形成され、オタク達はその目に見えない共同体に身を寄せ合ったのではないだろうか。
「おたく」の発明後、特に70〜80年代生まれのオタクたちにとっては受難の歴史となる。「神戸連続児童殺傷事件」を始めとしたサブカル趣味を持つものによる事件の数々が、オタクへの風当たりを強くした。しかし、そんな逆風の中でもオタク文化が着実な成長を続けたのは、「オタク」というかなり広い共同体が形成されていたからなのだと考える。バビロン捕囚の際に唯一神を信じて信仰を続けたユダヤ人のように、オタクという生き物はスクールカースト・社会構造の下部の中で、着実に文化を発展させていったのだ。

自己卑下による連帯

そんな時代にオタクを自称する時、やはり自己を卑下する意識は多かれ少なかれあったはずだ。オタク逆風瞬間最大風速を記録した90年代後半は例外的かもしれないが、この自己卑下が重要なのだ。この日本のオタク特有の自己卑下の意識は、恐らく海外のオタクたちにはあまりない感覚だと考える。つまり、元々日本に根付いていた「謙遜文化」に「蔑称としてのオタク」が結びついた結果、オタクを一人称として用いる際に謙遜表現になるという概念が生まれた。もちろん、オタクに誇りを持つ者もいるが、今回はあくまで謙遜的なオタクについて話したい。
この「謙遜」が社会的弱者のオタクにとって都合が良かったのではないだろうか。つまり、オタクを自称することで自分が蔑まれるべき存在であることを固定化し、自己防衛することができる。そもそもオタクが社会的に蔑まれた理由はサブカル趣味だけてまはない。容姿、対人スキルなどの要素が「『おたく』の研究」でも挙げられており、本人たちもコンプレックスを感じていたはずである。「オタク」というワードはこれらを覆い隠すベールとなる。サブカル趣味≒オタク≒容姿、対人スキルのコンプレックスという図式の元、オタク(サブカル趣味保有者)であることを自称することで、裏に隠れたコンプレックスを暗に主張していたのではないだろうか。人が恥ずかしい思いをした時に顔を赤くする理由は、それ以上注目してほしくないからである。オタクという言葉は先手を打って顔を赤くしておくことで、相手に指摘させないぞという防衛本能なのではないだろうか。決して自らのコンプレックスについては直接的に語らず、しかし相手には婉曲的に伝える手法として都合が良かったと考えられる。

コンプレックスのないオタク

そんな中、オタク文化を肯定するムーヴメントが起こり始めた。静かに、しかし着実に。これにより、オタク文化は世界に羽ばたき始め、オタクたちもついに日の目を浴びた………というのは幻想である。

実際はオタク層を市場に取り込みたい非オタク関連企業側の思惑であり、逆に新たな顧客を狙うオタク関連企業の作戦であった。バブルも弾け、日本は長い不景気に入る。私の妄想に過ぎないのかもしれないが、縮小する市場の中で生き残るには、なりふり構わず今まで目をつけていなかった奴らでも取り込みざるを得なくなったのだ。オタク市場は大衆化し、大衆化市場はオタク化した。
一見いいことにみえるが、真のオタク達にとってはまったくいいことではない。「オタクは市民権を得た」という意見をたまーに目にするが、はっきり言ってオタクに市民権はいらない。オタクに対するパブリックイメージが良くなればなるほど、前述の「謙遜」が使えなくなる。自らのコンプレックスに向き合わなくてはならない。「オタク」を自称しても「あっそ」で終ってしまう。そこから「謙遜」するには、個々が自らのコンプレックスを暴露するなり、あるいは心に留めるなりしなくてはならなくなる。「僕オタクなんだ。」で済んだことが、「僕はオタクで顔がキモいんだ。」みたいなことを言わないといけなくなる(極論だが)。

オタク芸人、オタクアイドル、オタク政治家………
オタクはいつから大衆に親近感をもたせるための冠詞になったのだろうか。まあこんな方々がオタクを名乗る時点で、オタクから蔑称的なニュアンスは消えたと見ていいだろう。
それと引き換えにアーキタイプのオタク達は謙遜するすべを失った。社会的に弱いオタク達は自らのコンプレックスに突きつけられてしまったたのだ。再びオタクが連帯を取り戻すには、「オタク」に代わる言葉を発掘する他ない。



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