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小説『キラとリコ』

「野菜のバーコード。レジで剥がれやすくないですか?」
「口ごたえする前に、昨日教えたポイントカードの処理を間違えなくできるようにしたらどうなの? お客様のクレーム処理の尻ぬぐいする俺の身にもなれよ」
 桜木綺羅は「スーパー花園」のバックヤードで甘粕店長からしつこく指導を受けていた。
 私は入社1年目の新人社員。
 いつも眼鏡が油膜で汚れている甘粕店長に最初から嫌悪感を抱いていた。しかも、毎日パワハラじみた指導を受けている。私が職場で一番苦手な人物だ。
 一つ質問しただけなのに、口ごたえととらえられるなんて。
「いつもご迷惑かけてすみません」
 指導を終わらせるためだけに、仕方なく謝った。
「いつまでも学生気分じゃ困るよ。こっちもボランティアで君を雇っているわけじゃないんだから」
 店長はため息とともに大げさな捨て台詞を吐いて去って行った。
 毎日、今日限りでやめてやると思っていた。
 誰かに仕事の愚痴を言うにも、職場にはゴシップ好きのおば様方や、若い女は愛嬌が一番と思っている時代錯誤の男連中ばかり。
 私が尊敬できる人なんて1人もいなかった。
 会社の悪口を聞いてくれるのは、彼氏の直哉ただ一人。
鬱憤がたまるたびに電話をした。
「うちのスーパーの店長も社員もクズばかり。こんな会社に毎日通う私って、本当に可哀そう」
 優しい直哉は、怒りの収まらない私の愚痴を黙って聞いてくれた。
「綺羅も大変そうだね。すぐに飛んで行って話を聞いてあげたいのに、遠い所にいてごめんね。いつでも話を聞くから」
 私と直哉は東京と大阪の遠距離恋愛中。もっと近くにいたら嫌みの1つや2つなんて忘れられるのにと思った。
 そんな冴えない毎日が続いた2年目。綺羅にとって、小さな奇跡が起きた。理子先輩が別のスーパーから異動してきたのだ。
「初めまして、梅田理子です。初めての店舗だから細かいルールとか教えてね」
「桜木綺羅と申します。私でわかることならいつでも聞いて下さい」
 理子先輩は15年目のベテラン社員。クレーム処理から新人研修まで全てを受け持つスーパーウーマンだった。
 店長からの信頼も厚く、噂好きのおば様方とは正反対の、さばさばしたかっこいい女性。
 ある日、理子先輩が接客を終えた直後のベテランの男性職員に静かに近寄った。
「お客様に『サッカー台』なんて専門用語を使ってもわからないので、『袋詰めをする台』と説明するべきだと思います。常にお客様目線で接客をして下さい」
「たまたま口から出ただけだろ。言われなくてもわかってるよ」
 私は目を奪われた。言い訳する男性職員が無様に見えて、小さくガッツポーズしてしまったほどだった。
 男連中にも、信念をズバズバ言えて、疎まれる部分もある。でも、間違っていないから一目置かれている。
 私は、理子先輩の仕事ぶりに憧れを抱いた。
 翌日。いつも通り、油膜眼鏡の甘粕店長に嫌みの嵐を浴びせられて、げんなりしながらトイレで手を洗っていると、理子先輩が話しかけてきた。
「毎日眉間に皺を寄せて辛そうに仕事してるけど大丈夫? 気のせいだったらごめん。でも、気になっちゃって。笑うとかわいいのに、もったいないなって」
「すみません。私ってそんな辛い顔していますか? 大丈夫です。いつも私がとろくさくて甘粕店長を怒らせてしまって……」
「あぁ、気にしない気にしない。実は私も若い頃、少しだけ一緒に働いたことがあるんだけど、その頃から全く成長してないの。嫌みと眼鏡の油膜は憎たらしいほど昔のまま。上に取り入るのが上手いだけの無能社員の典型だから、全部聞き流しな」
 憧れの理子先輩に、突然の優しい言葉をかけてもらって、驚きと、嬉しさと、悔しさで滝のように涙が溢れてきた。
「ちょっと、そんなに思い詰めてるなら話聞くから。今夜、少し時間作ろうか?」
 その日から、私は理子先輩の信者となった。
 何度も飲みに行って、仕事の話や家族の話や恋の話。なんでも理子先輩には話せた。職場でただ1人の心を開ける先輩。
 先輩は飲みに行くと必ず言ってくれる言葉があった。
「綺羅といると元気になれるよ、ずっと一緒に働きたいね」
 私はその言葉が嬉しくて、その言葉が聞きたくて先輩と何度も飲みに出掛けた。
 酔った先輩はいつもカウンターにうつぶせでうたたねしてしてしまって、襟元からちらりと見える小さな紫の蝶のタトゥーが美しかった。

 先輩の信者になってから3か月。いつも通り屋上で2人きりのランチをしながら私の愚痴を聞いてもらっていた。
「店長の眼鏡の汚れは心の汚れの表れだと思うんです。今日は30分もねちっこい嫌みが続いたんですけど、眼鏡を見たらいつもの数倍汚くて」
「綺羅、怒られながらそんなところに気づくなんて、余裕出てきたじゃん」
「先輩の言葉を思い出したんです。無能で嫌みでゲスで人でなしの甘粕の言うことなんて聞き流せばいいって」
「私、そこまで店長をひどく言ったっけ?」
 先輩は口に入れたばかりのおにぎりを吐き出しそうになりながら笑った。
 昼休憩で時々のぞかせる先輩の子供っぽい笑顔は、私だけが見られる特権だと思った。
「とにかく、私は先輩がいてくれるだけでどんな辛いことも我慢できるようになったんです」
「それは良かった。私の存在も多少は役に立ってるんだ。男連中には可愛げがないって疎まれてるのに」
 先輩が少し寂しそうな表情をした。だから、私はすぐに元気づけるつもりで会社の悪口を捻り出した。
「今の仕事のやりがいって何なんですかね。くだらない社員の嫌みと、理不尽な客からのクレームの毎日。仕事ができる先輩も疎まれて、こんな職場、私はいつでもやめてやりますよ」
 そう訴えかけた私に、理子は淡々と答えた。
「綺羅は仕事を辞めたいの? 引き留めて欲しいなら、私に相談しないでね。綺羅の決断はどんな内容であっても応援したいから」
 本当は、やめたら駄目だと言ってくれると思った。
 ずっと一緒に働きたいって言ってくれてたのに。
 寂しさが心に重くのしかかった。

 その夜。本気で会社を辞めるつもりはなかった。でも、自分を試す気持ちで憧れていたアパレル関係の会社に 願書を出した。思いとは裏腹に希望していたアパレル関係は書類審査でことごとく落ちた。
 不合格の連絡が来るたびに、理子先輩に報告した。
「残念だったね。でも、縁がなかっただけで、綺羅の魅力をわかってくれる会社は絶対にあるから頑張れ」
「先輩は、私が合格したら嬉しいですか?」
「もちろん。夢を掴もうとする綺羅を私は応援する」
 理子先輩が励ましてくれる度に、先輩の気持ちがわからなくなった。
 私はやっぱり、理子先輩にとっては一社員なだけで、特別に分かり合えていたと思っていたのは私だけだったのか。私がいなくなっても先輩は寂しくもなくて、また新しい後輩と飲みに出掛けるようになるだけなのかもしれない。
 いつの間にか、憧れのアパレル業界への就職より、どこでもいいから再就職へと意地になっていた。
 就職が決まった報告をして、私でも必要としてくれる場所がある事実で、理子先輩に認められたかった。
 何社受けても「今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます」の一文しか届かない。
 誰が名づけたか通称『お祈りメール』。
 メールボックスに何通も『お祈りメール』が溜まった日、小学生の頃に夢中になっていた遊びを思い出した。
 あの頃は何でもおまじないで願いをかなえようとしてたっけ。
 1つだけ覚えている。月が輝く夜に願いを叶えるおまじない。
「どこでもいいから、合格通知が届きますように」
 月に向かって願い事をしながら絡めた指で十字を切るだけの子供騙しのおまじない。
 綺羅は、藁にもすがる思いで指先に力を込めた。

『選考の結果、桜木様を当社社員として、4月1日付で採用することに決定いたしましたのでご連絡いたします』

 就職活動をし始めて、1年が経とうとしていた。
 大阪にある医療機器メーカーから届いた一通のメール。
 念願の合格通知に歓喜した。
 今まで私を必要としなかった会社の人事部の方へ。幾度もお祈りしていただいてありがとうございました。やっとあなたたちのお祈りが通じました。
 
 私は彼氏の直哉にすぐに報告した。
「やっと合格もらえたよ」
「おめでとう、新しい未来の幕開け、がんばれよ。いつからこっちに引っ越してこれる?」
 直哉は心から喜んでくれた。
 就職活動を始めた時、合格したら同棲する約束もしていた。
 私は、東京から直哉が住む大阪へと移り住む。
 5年間務めた『スーパー花園』に未練はない。これからは新しい就職先と、大好きな直哉との同棲生活。こころ躍るバラ色の毎日が待っている。
 でも、私の心の内のバラ色は5割で、残りの5割は灰色だった。
 私が夢中で勝ち取った合格通知は、理子先輩との別れを意味する。この複雑な現実をどう受け止めたらいいのかわからなかった。
 気持ちが整理できないまま、店長に退職の意向を伝えた。
「結局若い子って続かないんだよね。丁寧に指導しても一人前になる前に辞めてしまうんだから。そんな根性ないやつはどこで働いても結局半人前だよ。まぁいいや。桜木君の代わりなんていくらでもいるからね。お疲れ様」
 店長からは想像通り、最上級の嫌みをもらったが、もう私にとってはどうでもよかった。
 その日の仕事終わり、理子先輩を飲みに誘った。
「先輩、今日はいい報告があります。私とうとう、就職が決まりました! 4月からは新しい職場で働きます」
 まだ、気持ちに靄がかかったまま、わざと明るく報告した。
 私は、スマホの画面に表示されている合格通知を見せ、先輩の様子をうかがった。
 おめでとうって勢いよくハグされるのを期待していたが、理子先輩はジョッキのビールを一飲みして、寂しそうな笑顔を浮かべた。
「よかったね。やっと出会えたんだ、綺羅の思いと会社が一致するところに。ずっとやりたかっもんね、アパレル。綺羅の夢だったから、寂しいけど応援する」
 私の就職先はアパレルじゃありませんと直ぐに返答できなかった。
 理子先輩に嘘をついたみたいで、胸が張り裂けそうだった。
 そうだった。私の夢はアパレルで働きたいんだった。
 理子先輩に憧れて、自分が誇りを持ってできる仕事がしたくて、再就職を決断したんだった。
 好きな仕事に真正面から向き合う理子先輩がかっこよくて、私もアパレルならって踏み出した。けれど、お祈りメールが沢山届くうちに、『アパレルに就職したい』が、いつの間にか、『合格通知をもらう』に変わっていた。
 数分前までの喜びは何に対してだったんだろう。
 何通も送られてくる『お祈りメール』に対し、自分を否定されているように感じて、手あたり次第に面接を受けた。
 とうとう勝ち得た合格。いくら説明しても納得してもらえないクレームを、1人で解決できたような達成感に酔いしれていただけなのかもしれない。
 さして好きでもない医療機器メーカーに就職が決まったところで、私は何であんなに浮かれていたんだろう。
 きっと、先輩の祝福を待ち望んでいただけだったんだ。
 夢を掴んだわけじゃない私に、理子先輩が祝福してくれるわけないじゃないか。
 馬鹿だなぁ。今更気づくなんて。
 夢でもなんでもなかった会社に認められたけれども、結局私が一番認めて欲しかったのは理子先輩にだったと今更気づいた。
 私が欲しかったのは、合格通知をもらえた私に対して一人前と認めてくれる理子先輩の喜びの言葉だった。
 理子先輩に認められたくて始めた自分の価値の証明は、一番大好きな理子先輩との別れになった。
「新しい人生。綺羅が選んだんだから間違っていない。今まで通り振舞えば、絶対に成功するから。私が保証する」
 理子先輩が私を後押しすればするほど、涙が溢れてきた。
 泣き続ける私に、先輩はハンカチを差し出した。
「嬉しいからって泣きすぎ。涙拭きな。顔ぐしゃぐしゃだよ。そのハンカチは餞別であげるから」
 そう言って、昼休憩に見せる子供っぽい笑顔で、紫色の蝶が刺繍されたハンカチをプレゼントしてくれた。
 先輩の首筋のタトゥーと同じ色をしていた。
 ハンカチを渡す意味は『別れ』の意味だって知っていますか。
 嬉しいはずの旅立ちなのに、涙が止まらないです。
 もっとそばで先輩の仕事ぶりを見ていたかった。
 まだたくさん聞いて欲しい話もあった。
 そんな理子先輩との幸せな日常を、私が断ち切ってしまったんですね。

 帰り道、空を見上げると月が私たちを照らしていた。
「先輩。おまじないってしたことありますか?」
「あー、懐かしい。子供の頃やってたな」
「人差し指と中指を絡めて、月に向けて十字を切りながらお祈りをすると、願いが叶うおまじないがあるんです」
「そうなの? ちょうどいい。一緒にやろう」
 2人で目を瞑り、月に向かって十字を切った。
「理子先輩は何を願うんですか?」
「大阪に行った綺羅の眼鏡が、油膜で汚れませんようにって」
「なんですかそれ。真面目に答えてくださいよ」
 2人で少し笑った後、自然と黙って数秒間、真剣に祈った。
 先輩。今、何を願っていますか? 
 私は今更だけど、もし、時を巻き戻せるならば先輩と出会った日に戻したい。
 就職活動なんか始めずに、先輩と一緒に歩みたい。
 直哉と遠距離のままでもいい。
 先輩。閉じた瞳のその奥に、私と同じ願いを浮かべてくれていますか。
 今ならまだ間に合う。
 叶うなら私を引き止めて欲しい。

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