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あえて「愛」を定義するなら~天秤の皿の外~(1)

皆さん、「愛」って何だと思いますか?

優しさを与えることでしょうか?

思いやりを与えることでしょうか?

無償で相手を肯定して、受け入れることでしょうか?

その他、もろもろ、人それぞれ「愛」という広い言葉に対する具体的なイメージは本当に多種多様だと思います。

「愛」とは、何か?
恐らく、それは人それぞれの経験に基づく感覚で、第三者が定義する様なものでは無い気がします。

そこで、私にとっての定義について書かせて頂こうと思います。

「愛」とは何か?
私は、これは、根元的には、
「共存」への原始的なモチベーション
だと思います。

限定的な利害で相手の一部を不必要とするのではなく、
ただ、「共にいる」、「側にいる」、
その事実の価値を受け止め、感謝することだと思います。

なぜなら、「生き物」自体、細菌から、昆虫、魚、哺乳類など、様々な「生きる形」がありますが、
その一部である「人間」という括りでも、
「生きる」
という形は、壮大なフラクタルを成しており、その「多様性」自体が「人間の存続」を支える強い力だと思うからです。

ここで、少し話を変えます。
昨今、医療業界でしばしば話題に挙がる「薬剤耐性菌」という言葉、皆さんご存じでしょうか?
名前のままで、何らかの「抗菌薬」に耐性を示す細菌のことですが、そのニュースの内容から、「非常に強い細菌」という印象を持たれる方も多いと思います。

しかし、本当は、「薬剤耐性菌」とは、人が薬物で干渉することがなければ、貧弱過ぎて一般的な細菌に淘汰されてしまう細菌なのです。

つまり、一部の「細菌」は、人のせいで「抗菌薬」という「災厄」に見回れたのですが、そんな絶望的な状況で、ある意味「最弱」の存在によって「種の存続」という意味では、一命をとり止めたのです。

私は、これと似たようなことが、「人間」でも良くあると思います。

つまり、その時々で、「価値」が認識されていない「存り方」や「生き方」をしている人が、思いもよらないタイミングで周囲を支える存在となる

という歴史が、幾度と無く繰り返されていると思うのです。

だから、「生きる」の

多様性

そのもの自体が、

人を、もっと広く言えば、生物を「生存」へ導く大いなる力なのだと、私は、考えているのです。

だから、自分とは異なる「在り方」をした「何らかの自分に近い要素をもつ」存在が、「自分の側にいる」という事実

ただ、それだけが、非常にありがたいものなのだと、私は、考えているのです。

そうは言っても、いつの時代も、戦争や、犯罪は起きますし、利害の衝突を避けられない状況も多々あると思います。

でも、これらも、もとを正せば、どの立場の人も
「必死に生き残ろう」
とし、それだけでも一杯一杯なのに
「必死に、自分の周囲の存在を支えよう」
として、引くに引けない事情を何らかの形で抱えているから生じる出来事なのであり、ある意味、この「戦争」や「衝突」さえも、「在り方」の一種なのかもしれません。

でも、だからこそなのです。
だからこそ、お互いの「生きる」を打ち消し会うことなく、「ただ、側にいる」そうしていられることも、本当に有り難いことなのだと思うのです。
だからこそ、そこに感謝することが、「愛」を生むのだと私は思うのです。

(2へ)(長いので分けて書きました。すみません(笑))


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