アートの深読み4・モネの「サンラザール駅」
工場の煙
物語のないあいまいな色彩のうつろいでしかない絵なのに、ぼんやりと見ていては見落としてしまう現代社会へのメッセージが含まれている。声高には語られないので見落としてさえ構わないが、それに気づくとモネの世界観が見えてきて、真意が読み取れてくる。モネの美観を形作っている靄(もや)に霞む神秘的な光景は、光の魔術師のせいではなくて、現代社会への告発を含んでいると見ることもできる。
蒸気機関車が白い煙をはいて進む場面が描かれている[下図]。遠景に白い煙を吐き出す工場の煙突が描かれている。大気をおおう靄や霞は、モネが見つけた美意識だし、見るほうもそれを美しいものだと思ってきた。しかしよく見ると霞か雲かと思っていたものが、実は汚染だと気づくとモネをあらたな目で見直すことになる。
蒸気機関車の吐き出す煙や、遠景の工場の煙が、「描かれている」のであって、真っ白な煙であったとしても、決して無害なものではない。絵画の場合、知らないうちに写し込まれていた写真のような偶然はありえない。明確な意図をもってそこに置いたということだ。地球環境の悪化はそこからはじまり、モネの絵はそれに対する告発ではないか。それらはまだまだ遠くにあって、気づけていない場合も多い。モネはそんな現代都市の光景を皮肉ってみせる。
絵画はまるで美であるかのように嘘をつけるのだ。そこには臭いがないから、簡単に美に変貌してしまう。モネは美にだまされるなと警告しているようにみえる。西洋絵画がおもしろいのはモネのそうした警告通り、現代都市はますます醜悪な姿を見せはじめる点だ。モネ以降10年ほどの間に、大きく絵画は様相を変えてしまう。
わかりやすい絵が、ピカソに至ると不可解で、世界は変貌しゆがみはじめる。その変貌ぶりはあまりに急激すぎてついてはいけないはずなのに、感性の怠慢はそんなものかと歴史上の知識を受け入れてしまう。印象派からキュビスムとフォーヴィスムへの展開は、こうした社会的変動を下敷きにしている。
サンラザール駅
日本人はモネが好きだ。なぜ好きなのか。絵の意味を考える必要がなく、わかりやすいからだろう。何が描かれているのか主題を知らなくても、恥をかくことはない。いいかえれば絵画らしい絵画が誕生したということだ。キリスト教や神話の挿絵であるなら、主役は物語であって、絵ではない。絵は脇役に甘んじることで、命をつないできた。しかしそれを捨てて自立することで、絵は絵画と名をかえ、独自性と可能性が開けることになる。エカキもあらたまって画家と改名した。
モネの描いたのが、現代社会の都市化のスピードに合わせて失われつつある自然だとすると、モネはそれにヴェールをかけることで、観客の目を自然へと誘導したのではないか。隠されると見たいと思うのが人の常だが、それを逆手にとって古き良き自然を感じさせようとした。モネが霧にけむるロンドンを好んだのは、単なる気象現象によるものではない。大都市の空気の汚染を考えれば、そこにあるのは自然現象の靄ではなく人工が生み出したガスである。匂いをともなわないメディアでは、スモッグも神秘のヴェールに包まれて絵になる姿を写し出す。
モネが繰り返し描いた「サンラザール駅」(1877)[フロント図]に立ち込める空気は、光の魔術にカモフラージュされているが決して美しいものではない。マネがモネに先立ちサンラザール駅を描いた「鉄道」(1873)[下図]では、鉄格子に息づく猛獣をみるように、蒸気に煙る鉄道駅を好奇心で眺めているおさない娘に対し、母親のほうは背を向けて目にふれようともしていない。マネのサンラザールの駅舎は「檻」だったが、モネでは「箱」だった。
箱の中に煙が入った光景とみれば、浦島太郎伝説にたどり着く。開けると白い煙が広がって、若者の黒髪は白髪になってしまった。西洋の話なので、パンドラの箱と比較する方がいいだろう。何も入っていない箱ではない。無や闇が入っているとしゃれてみることはできるが、煙というのが美術の話としては最高のレベルだろう。箱の中身は宝石を思い浮かべるのが原点ではあるが、そんなものはすぐに箱いっぱいになってしまう。結局はむなしく、煙のように消えてしまうというのが、ここでの厭世観だ。
写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)のとらえたニューヨークの鉄道も、モネのパロディとして見れば、歴史的系譜が読み取れる。靄に煙るなかを真っ黒の煙をはく蒸気機関車が写しだされ「人間の手」(1902)[下図]と題されている。「神の手」と対比をなす命名だと気づくと、神をこえた人間の発明による不吉な予感を感じ取ることになるだろう。
それは黒煙をはいて向かってくる地獄のモンスターにみえてくる。ここではターナーやモネの描いたような白煙ではない点に注目する必要がある。印象派の描く煙は多くが白かった。白い煙を画家は描けるが、黒い煙は写真家スティーグリッツの見た真実だった。そんな黒煙を吐き出す魔王を描いた「最後の審判」を中世イタリアの教会壁画で見た記憶がある。
21世紀に入ってもニュース映像を通じて、靄(もや)にけむる北京が神秘のヴェールにつつまれた魅力的な都市に見えることがよくある。それは都市が文明の破滅にむかうための通過儀礼のようなものだっただろう。東京でもそれは経験済みで、東京には空がないと嘆き、本当の空をみたいと訴えた無垢な娘を狂気に導くものとなった。
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