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アートの深読み11・稲垣浩監督の「無法松の一生」1958
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稲垣浩監督作品、三船敏郎、高峰秀子主演。第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。もうすでに誰かが解釈しているかもしれないが、無法松の一生を聖ヨゼフ伝としてみようというのが、ここでの私の提案である。一人息子を育てる未亡人(下図)をかげながら支えるあらくれの車引き(上図)の生涯をたどる。小倉生まれの玄海育ちである。気性は激しいが、心根はやさしい。淡い恋心をひとことも伝えることなく死んでしまった。こんなことをいうと元も子もないが、女のほうはたよりになるたのもしいお人よしと割り切った気持ちだったかもしれない。
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男の気持ちを察しながら、あたりまえのように接し、好意にあまえ続けたようにみえる。奉公人でもないのに付き従い(下図)、母子を守ることを運命づけられているのだと、男は使命感を感じていたのだろう。男にとって女は聖母マリアのように目に映っていたにちがいない。とすれば彼は夫であるのに妻を純潔のまま保ち、肌に触れることもなかったキリストの父ヨゼフにあたるのだとわかる。この心理は日本人には理解が難しいが、この映画がヴェネツィア映画祭で金獅子賞を獲得したのは、キリスト教世界にとって、含蓄ある男の生きかたにみえたからだろう。
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舞台は北九州の小倉である。男が行き倒れのようにして死んで倒れていたのは、雪に埋もれてであった。九州だからといって暖かいわけではない。北九州は日本海側なので、じつは雪国なのだとわかる。雪景色が悲しい世界を映し出している。南国にみる雪の情景は、キリスト誕生の風土とも同調している。エルサレムに生まれたはずなのにクリスマスは今では雪景色になってしまった。
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けんかばやいが一途な男の純情とロマンティシズムは、富久娘のポスター(上図)を飲み屋からもらってきて、部屋の壁に貼り付けてある光景から察せられる。それは和服姿であるが可憐で、どこか聖母子を描いた伝統的な画像に似ている。九州に広がった隠れキリシタンのマリア観音を連想してもよいだろう。酒も好きなのだが、飲まずにこの母子のために貯金していたようで、死後ふたりの名義の預金通帳(下図)が出てきた。男の美学に徹した生きざまではあったが、理屈では理解できない悲しい死にざまでもあった。人力車の車輪が「運命の輪」を思わせて、回るシーンが繰り返し映し出され、宿命を暗示して印象深かった。
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「無法松の一生」はこれに先立って1943年に、同じく稲垣浩監督によって映画化されていた。第二作は戦中の検閲によるカットのリベンジのようだった。このときの主演は阪東妻三郎(下図)で、ここでも人力車の車輪の影が何度も映し出されて運命を暗示させた。富久娘ではなかったが、日本酒のポスターが一度だけ映し出されていた。主人公の死の姿は割愛されていたが、雪がちらつく描写は象徴的に挿入されていた。坂東妻三郎の演じた主人公のイメージは、三船敏郎に引き継がれていたと思う。若き日の長門裕之(下図)が子役で出ているのに驚いた。
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