就職活動に失敗すると人生がすごく大変1
時は就職氷河期末期。もうずいぶんと昔の話しではあるが、後の人生を困難にしてしまった人生最大の後悔時期である。
俺の記事を読んで就職活動に真剣に取り組んでくれる人が増えたらと思うし、キャリアが順調な人は優越感に浸ってくれればと思っている。
当時の俺はMARCH に通う大学生だった。MARCHと言えばまぁ悪くないと思う方も多いと思うが、俺が通っていた高校は東大生が二桁受かる進学校。そこからMARCHに入学するのははっきりいって落ちこぼれである。
とはいえここから這い上がってやろうという気持ちでもあればまた違った人生だっただろうし、大学時代に何かを成し遂げていればそれもまた違う人生だったはずだ。
しかし、MARCHごときでは周りには志の高いやつを探すほうが難しく、俺自身見事なまでにMARCHに染まり、遊ぶことが全てという典型的なダメ大学生になるまではそう時間はかからなかった。
学校には殆ど行かずバイトと遊びの繰り返しだ。バイトは金の良いバイトばかりしていていたため少ない月でも20万、多い月は40万に届くこともあった。これだけ収入があると尚更初任給が20万そこそこでスーツを着て週5日も朝早くから拘束される社会人にはなりたくない、というのが当時の俺の感覚だ。
大学生の割に稼いでいた割に貯金することもなく、バイト代は毎月全て使い切っていた。大学の仲間は金のないやつばかりだったから遊び相手も社会人ばかりだ。
バイト代の使い道は服であったり、飲み代であったり、クラブ代に消えていった。俺が通い詰めていたクラブは学生が集まるようなしょぼいところではなく大人の遊び人が集まるところだった。
場所は新宿か六本木。そこで出会う奴らは何をしているかよくわからない怪しいやつが多く、外国人も多かった。そういう奴らとつるむようになると大学生がまるで子供のように思えてしまい、ますます大学とは疎遠になっていった。
とはいえ卒業してフリーターはさすがにまずいだろうと片手で数えるくらいの会社説明会には参加するものの人生謳歌、いや勘違いしている自分には就活というもののスイッチが入ることは一度も無かった。結果的に準備もせずに面接すれば入社できる商品取引の営業職が唯一の内定企業だった。
読者の方はこの時点で終わった方向に進んでいると気づいていることかと思う。
自分なりにこの堕落した生活に対する後ろめたさと反省の気持ちはあったので、営業の中でも特に厳しいと聞いていた商品取引の営業職は禊の意味合いもあり働くことを決意したということもあった。今になって思い返せば、就職浪人したほうがよほどましだったが過去には戻れないので仕方あるまい。
商品取引の営業といってもピンとこない方も多いとは思うが、商品取引の営業では来る日も来る日も受話器を握りしめ、電話口で毎分、いや毎秒のように罵声を浴び、数字があがらなければ上司から詰められる日々を過ごすことになった。自分で言うのもなんだが同期と比べれば精神的に安定していたほうがだと思うが、この仕事の何が辛いかというと、キャリアが全く形成できないことだ。
1年たっても2年たっても3年たっても受話器を握りしめて電話をかけるだけの日々を過ごすことに俺はとても不安を感じていた。そして俺と同じように社会人になった友人と会った時の差、劣等感は正直耐えがたいものだった。
唯一の休みである日曜日に友人と会えば絵に書いたようなキラキラとした社会人ライフが否応にも耳に入ってくる。ちなみに俺の会社にはほぼ男しかおらず、ブラックスーツに白いシャツ、ゼロハリバートンのアタッシュケースと高級腕時計、時計は大体ロレックス、革靴とベルトはなぜかフェラガモ、これが商品取引営業マンの格好、というかユニフォームみたいなものだ。
通勤列車で見かけるストライプの入ったスーツ、カラーシャツ、革靴、バッグなどなど。俺もあーいう格好をしたいと何度思ったことか。
当時は石の上にも3年みたいな世の中ではあったが、流石にここに居続けるのは人生の無駄でしかなかったため1年も経たないうちに勇気を振り絞って退職の意思を伝えることにした。
この手のブラック企業は、そう簡単に退職を認めてくれない。会社はアメとムチを使い分け何とか退職を防ごうとしてくる。支店としても新卒が早々にどんどんと辞めていくと本社から追及を受けるからだ。
「お前の採用にいくらかかったと思っているんだ。これまでの金を返せ、退職なんてさせねーぞ」
今のご時世、いや、当時であってもそれはまずいのではないかという罵声を密室で浴びせられ続けながらも何とか無事退職することになり、俺は人間らしい生活ができる会社を探すべく就職活動を開始した。
転職活動は在職中に行うことが鉄則ではあるものの終日受話器を握りしめ、自由にトイレすらいけない環境では転職活動など到底できるはずもなく、退職してから仕事を探すはめになった訳だが、これがまたとても厳しい世の中を見せつけられることになる。
そもそもこの時は就職氷河期真っ只中。何のスキルもなく1年も経たずに会社を辞める人間を雇ってくれるところは限られている。学生の時は全ての会社が門戸を開いていたのにたった1年で新卒扱いではなく中途扱いとなり、まるでダメ人間のレッテルを貼られたように門は閉じられてしまう。
そんな俺でもチャンスがありそうな業界といえば、不動産、飲食、そして同業くらいだった。募集要項、採用条件を見るとこんなにも今の俺にはチャンスが無いのかと絶望した。
しかし、仕事をしない訳にもいかないし、フリーターで生きていくつもりもなかったのでとにかく手当たり次第、エントリーし面接まで進める企業はとにかく面接をしまくった。
面接でよく聞かれるのはなぜ1年もせずに退職したのか?という質問だ。当然と言えば当然の質問であるが、まるで忍耐力が無いかのように発言されることは心底腹がたった。
「あんたなら1ヶ月も続かねーぞ、あの環境は。」
と心ではいつもそう思っていた。
一度の失敗でここまで人格を否定され、チャンスもなくなってしまうとは当時の自分には想像もできなかったし、周りの友人や親の言うことをなぜもっと真摯に聞かなかったのか、悔やんでも悔やみ切れない思いだ。
そんな中、数打てば当たる戦法で俺はとあるweb制作会社の営業として採用通知をもらうことができた。
正直なところ何も魅力は感じない。しかし背に腹は変えられずというところで、入社することを決意したのであった。
ちなみにこの会社も当時の情弱な俺らしい選択だったと思う。
場所こそ便利な立地だったが、月給25万円でボーナス無し、残業手当てなし。しかも雇用契約は散々要求し、出てきたの中身を確認するとなんと1年ごとの更新と書いてあるではないか。
普通はそんな会社入社しないだろうが、何しろ当時の俺は、他の会社から採用される気もしなかったしとにかく焦っていた。今にして思えばそれでも違う会社を探すべきであったが、これもまた過去には戻れないので仕方ない。
給与などの条件についてはまともな会社に勤めたこともなく情弱であったため後からそういえば残業代って無いのかな?とか、ボーナスってどうなっているのだろうか?など考えだす始末である。
実家暮らしの身分であったので25万円の給与でも生きてはいけるし、商品取引時代はどんどんお金が溜まっていったのでさほど給与のことは気にしていなかったのだが、それは大きな間違えだった。
そもそも商品取引の営業は給料が高い(それが唯一の良いところ)、そして飲み代などは全て会社持ちあるいは先輩持ち、ユニフォーム化したスーツ、シャツは一度揃えれば買うこともなく、そもそもお洒落は御法度だ。加えて休みは日曜のみで、その日曜も疲れて寝てることが多かった。
つまりお金が貯まるのは必然だった訳だ。しかし新しい職場は広告業界であるため皆おしゃれで華やか、ランチ、飲み会は自腹、土日はしっかり休みのためお金を使うシーンが圧倒的に多い。
となると月給25万ではなかなか厳しかった。いくら実家とはいえ、生活費は払う訳だし、休みが取れるようになると旅行にだって行きたくなる。そうなってくると全く余裕はなく、特に友人たちの給与と比べるとその差は歴然でみんなボーナスで何を買ったとか、どこに行く計画をしているとか、着ているスーツ、バッグなども自分からすると高級品ばかりだ。
好きな時間にランチが食べれたり、タバコを吸えたり、土日が休みということだけでも幸せを感じることができたのは最初の頃だけで、それらは極めて普通のことであったし俺がいた環境が異常だっただけである。
こんな年収と吹けば飛んでしまうような会社では到底、未来を描くことなんてできない。しかしまた1年で辞めてしまうと勤めていた会社がどこであればそんな奴を採用したい会社は早々ない訳で、何とか数年続けるしかないと考え出すとまた暗い気持ちになっていった。
学生時代は何となくイメージで働きたいと思っていた広告業界であったが、実際に働いてみるとクライアントの奴隷みたいな仕事が多く、誰かのためというよりクライアントの言うことを聞くことが仕事みたいなところであり、上下関係も非常に厳しかった。
仕事がしんどいというのは我慢できるが、何のためにやるのか、意義が無いようなことが多くこの業界でずっと働いていく気が出てくることもなく、そうなると一体俺は何をしたいのか、何なら興味を持てるのかを見いだせず悶々とした日々を過ごしていた。
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