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【エッセイ】「答えを創ろう!」

身近な人に、これから述べるような感じの人がいるから考えた。

「物事には正解がある」という考え方でいると、答えが見つからないときに、「誰かが正解を知っていて、そういう人と出会えば正解を教えてもらえる」というような態度になりがちだ。たとえば「人生」なんていう難しい問題に対してもそうで、誰かに教えてもらえないと、「答えがないから考えても無駄なんだ」となるときだってある。

「誰も教えてくれないし、正解が存在しないようだから考えても無駄なんだ」なんて考えは、キツい言い方かもしれないけど、甘えであり子供じみてもいると思う。答えがわからない物事に対してだって、自分なりにいろいろ考えて、ほんの一歩であっても答えを創っていくものじゃないかなあ? クリエイティブがあるかないか、はこういうところにも関係する。学校では正解ばかり求められてきたけど、学校でも授業じゃなくて生活面ではそうじゃなかったでしょ?(そう考えると、学校で「優等生」とカテゴライズされる人は正解を求める態度が染みつきそうで、その後大変なのかも)

また、答えが出ないような問題の答えが誰にも教えてもらえないとなったときに、自分で考えるしかないのだけど自分で考えようとしない人は、誰かの言うことを信じたがっていたりする。もちろん、考えていくことのが難しいことだって多い。考える手がかりや足がかりすらわからない場合もかなりある。そういうときに、本を手にとる人も多いのではないか。ただ、本を対話相手として自分の思考を鍛えていく手段とするのか、本の中身を信じる対象とするのかは人それぞれだ。後者は信じることで安定しようとする(宗教の意味のひとつはそういったところにもありそう)。

「自律した自分」という状態は幸福感とも大きく関係しますが、そういった自分の生をキープしていくためのひとつには、答えが出ないことを放棄せず、そして答えを求めて誰かの言うことを妄信せずにいること、ではないか。そういった姿勢を取ることに耐えられない人は、不安の強い人だ(まあ、誰しもそういうところがあるとは思いますが)。わからないことを留保しておく。そうしておいても不安定になって乱れない。そんな「勇気」が大切なのかもしれません。

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