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「おいしい」と感じること

「なんかおいしいものを食べたいね」「これでおいしいものでも食べてきな」
たまにこんなシチュエーションにあたると、ちょっとした特別感と色々な選択肢があってなんだかワクワクしてしまう。こんなときはある程度予算が限られてくることが多いのだが、どの馴染みの店にしようか、新規開拓をしてみようか、それとも家で適当に取り揃えようか、などと思いを巡らせる段階から楽しい気分が満ち溢れるものである。

この「おいしい」という感覚だが、これって万人共通なのだろうか。

いつも高級料理を口に運んでいるようなハイソな人なんかは、美味と言われる食に触れる経験値が豊富なので、少々のものでは満足されないのではと勝手に思ってしまう。きっと一流の食材を一流の料理人が手にかけたとき、それをわかる人間にはその価値が理解できるのだろう。

庶民の枠から出ることのない自分がそんな手の込んだ料理を口にしたとき、「おいしい」という感覚はどんなものなのだろうか。これまで食べたことのあるもので比較をしたときは、どちらの方がおいしいとかは言えるかもしれない。「おいしさ」というよりも「自分に合っている」という表現の方が正しいだろうか。だが舌の確かなお方から「この料理の良さがお前には解るのか」と言われてしまえばそれまでである。

しかしである。
料理って、味覚という土俵の中だけでその優劣を決めつけるべきものなのだろうか。

お祝いごとや喜びの分かち合い、ものごとの区切り、顔見せやお近づきのしるしなど、楽しいことや嬉しいことの集まりには、必ずといっていいほど食べ物や飲み物がつくではないか。

あまり意識をしたことがなかったが、なぜだかいつも食物が付き物である。

確かに食べるものがあるということそれ自体が、嬉しいことだしありがたいものである。喜ばしいイベントにありがたい食物は、高揚する気持ちも相まって「おいしい」という感覚に浸ることができる。

「おいしい」と理解している料理を食べるとき、その店の雰囲気が違うとその味も変わってしまう。たまたま居合わせた客と話しが弾み楽しい気分になるとその料理は一層おいしく感じるし、大声の説教や喧嘩なんかが始まってしまうと全くおいしさは飛んでしまう。

もし何日も食事にありつけることがなくようやく目の前に食べ物が出されたとしたら、上品な会席料理なんかよりB級グルメの方が自分にはよっぽどおいしいものとなる。

病気で胃腸が弱っているときは、お粥など消化の良いものの方がありがたい。

ぞんざいに手の込んだものを出されるより、愛情のこもった簡単な品の方が嬉しいし、こっちの方がよっぽどおいしい。


料理に感じる「おいしさ」とは、気持ちによる部分が大きい、いやそれがほとんどを占めているのではないだろうか。

笑ってみんなと食卓をともにする、これこそが最高の調味料であると自分は改めてそう思う。


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