腹を膨らますには

本を読むということは、具だくさんの分厚いサンドイッチを頬張る時に似ている。

とあるお店でパンに歯を立てた瞬間はみ出るソースや野菜などと格闘しながら、そう思った。

同じ、具材を挟んでいる形であるハンバーガーではなくて、サンドイッチ。
ハンバーガーは色々入っていたとしても、なんとなく主役は真ん中のパティという感じがする。それに比べてサンドイッチは全体的にもう少し周りと調和しているように見える。クラブハウスサンドとか、挟まれている食材が多ければ多いほど主役は皆、という気分になる。

読書は食事、という感覚が身に付くようになったのは野村美月さんの「“文学少女”シリーズ」の影響が多分大きい。主人公である天野遠子は純文学の小説をはじめとする物語を「食べ物」とし、本のページを破いては口に運びこれは〇〇のようだと感想をいいながら咀嚼する。著名な作品が多数登場し、全て料理や菓子をたとえとしているためこの作品はこんな味なのかとか、読むたびに色々と想像した。そこから自分が好きな小説はこの料理、などと遠子さんの真似事をするようにもなった。
実際に本屋へ行くと今も大抵お腹が空く。棚に敷き詰められた無数の書籍はさながらビュッフェレストランにひしめく大皿やボウルに乗った、色鮮やかな品の数々である。

物心ついたときから活字は好きだが、何がそんなに影響したのかは正直良く分からない。
歳の離れた従姉弟を持つ伯母が子育てが一段落したのを機に、幼い頃大量の絵本をくれた。自宅の本棚いっぱいに絵本が詰まっているのは「当たり前」であったし、当時はたまたま親の職場が図書館の目の前で仕事のついでに、と何かしら借りてきてくれることもしばしあった。
ごく自然と本は自身の一部のようになり、現在もそのままである。「ハリー・ポッターシリーズ」を手掛けたJ.K.ローリングさんはとにかく何かを読んでいないと気が済まない、トイレに行ったときも物のラベルなどを読んでいると自伝に書かれていたが、同じような人間に育ってしまった。携帯も文庫も持っていない小学生の頃は、便座に腰掛けてから鞄の中にあった無料のパンフレットを読んだりしていた。

そもそも本の最小単位である「字」が好きなのだと思う。ひらがなもカタカナも漢字もアルファベットもキリル文字等も、それぞれの良さがある。とりわけ字と字、意味と意味が組み合わさった漢字を見るとなんて美しく深いのだろうとしばし感動する。そこから二つ以上の字で出来る「語」を見れば余計に広がって、更に「文」「節」「章」と増え続け、「本」として綺麗に綴じられる姿がまた好きだなとなる。中身は勿論だが装丁部分も好きで、表紙やカバーに帯、各所でのインクに遊び紙とデザインされた一冊、というのが芸術品を愛でるように心が踊る。
世の中は大変便利になった。電子書籍の恩恵を受けることもあるが、一種の不自由さが自分の中での「本」であるし、可能な限り紙書籍を側に置いていくつもりだ。

本には様々な種類がある。ファンタジー小説のような空想の極致もあれば、ビジネス新書のような実用面に特化したものもある。
何を読み、何を己の中で「読書」と定義し、だから本が好きというかは個人の自由だ。多様性があるからこそ、おすすめ紹介をたまたま見てみたら思っていたのとは違った、というのもいくらでもある。
「読書」だなといちばん感じるのは小説を読んでいる時かなと個人的には思う。読書=現実逃避がどうもしっくりきてしまうのだ。現実の実際問題は生きていればいくらでも遭遇する。特にSNSが発達した昨今はニュース等時事に触れやすくなった。
だからこそ自分自身を遠くに飛ばして、知らない世界に飛び込みたい。作者から生み出されたこの世に存在しない人間の感情を知ったり、歴史上の人物はこう考えていたかもしれないと寄り添ってみたい。

そうやって様々なことを考えつつ今日も栞という箸を持ちながら食事をする。
目の前にあるのは美味しい中華だ。

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