見出し画像

聖書の話ってさ

 終始、パワープレイで行こうと思う。

 当時好きだった子に『快楽の園』という宗教画を見せられた。
 風変わりな子だったけど、色々なことを教えてくれるという点において、秀才だった思う。こういう何にでも応用が効くような「時頭で頭の良い子」になりたかったと思う。

 さっき授業で「旧約聖書」の話がサラリと出て、各々フリートークをしたわけなのだけれど。僕にとっての失楽園って、子供の成長と躾けだと思ってしまう。

 生まれたばかりの子供は神聖なもので、「赤ちゃん≒神様」ってなると思う。(仮にね)
 そのまま親の愛情やら周りの大人たちの守りやらで、大事に大事に成長していく。
 その中で、大なり小なりの失敗が出てきて、人は大人になる。

 要は、「悪は悪ではない」という考えが、自分の中では正しい気がする。
 
 詳しい勉強をしたことがないけれど、
 夏休みにやって来た親戚のヤンチャな兄ちゃんに、危ないことを教わって成長していく……それをいかに「許容できるかどうか?」を人間は問われていると思う。

 「悪」を「悪」だと思えるか?
 「悪」を繰り返そうと思うのか?
 「悪行」を行ってしまった相手を許すことができるのか?

 例えばとして、
 憧れAがあったとして、自分は10の努力を行わなければならない為、一瞬でAになることはできない。なので、嘘やデタラメという「悪」を用いて仮想的なAになる。
 例え見た目がAだとしても、それはハリボテであり中身は自分自身のままでAそのものではない。
 この背伸びを「悪」だと思えた時に、人は成長することができる。
 逆に自分は一から十まで正しいからこそ「善」だと変わらない人こそ、本当の「悪」なのではないのだろうか?

 今の日本人に「それは悪いことだからやめようね」と共通の認識で伝えることができないのは、お互いに存在する宗教がないからだと思う。個々人としての個性はあれど、誰かと繋がり得るものがない。

 退化したのか、進化したのか。

 おそらくそれは、誰にもわかり得ることができない次元に日本人が到達してしまったからだと考えられる。

 「無神教」というのも、あながち間違いではないと思う。

 共通の神ではなく、自分自身だけの神、いわば「自分=神」のような自己愛が芽生えてしまったからこそ、他者のことを考えられなくなってしまったのだろう。

 愛が分からないのではなく、自分に対しての愛が強いからこそ、愛を与えられない。なんなら、もっと欲しいという「欲望」が生まれる。
 愛を受け入れる器に穴が空いていたら、愛は受け取れない。
 本来、与えられる愛に際限はないが、愛の泉が枯れてしまっては、与えようがない。
 そして、愛の器は与えられるほどに大きくなっていく(=大人になる成長)からこそ、人に与えられるはずなのに、自分だけのものにしてしまう。

 これはある意味では神の望んだ形なのかもしれない。
 

 「会話のキャッチボールの速度で人を見る」と言う人がいた。
 おそらくそれは、センスを見ているのであり、自分というフィルターを通じて他者を見て吟味をしている。それでいて感覚の会う人といる。聞いていて、ある意味「正しさ」の一つだと思った。

 彼は自分の中に「物差」がしっかりと存在していて、自分視点の基準がある。
 他人の言動や立ち位置が気になってしまう場合「妥協していいのか?」という葛藤が生じるケースもある。
 この物差はあったほうが良いけれど、間違った尺度ではいけない。
「相手のためになるかどうか」
 この見極めはできるようになっておいた方が好ましい。

 相手をしっかりと見ることができて、その人が選んだ選択だから否定しない。ここにいない「誰かの評価」なんて気にしない。
 

 僕に必要なのは、「正反対な君と僕」と「逃げるは恥だが役に立つ」だと思う。

 きっと、そういうこと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?