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大学生活5年目に突入したけど②



昨晩投稿した「大学生活5年目に突入したけど①」の第2夜といきましょう。
私としては、思いつきで書いた割に、すらすらと進むので他の記事と比較しても書きやすいのでしょう。
前回はコチラ(①)


2020年11月府立大

2020年の11月つまり、私が大学1年生の冬を迎えたとき、
コロナは依然として収束を迎えてはいませんでした。

今では、あらゆる国籍でごったがえす京都も鳴りを潜め、
歩く足も急に止まったり、半歩ずつ進んだりせず、
目的地になんの障害もなく着いたものです。

12月ごろになると、府立大のサッカー部の3回生が引退となり、
私も足繫く部活動に通っていました。

烏丸通を今出川交差点から北上していき、
北大路にぶつかると東に進み、鴨川を渡り、グラウンドへ。

部活動を辞めてしまった今でもあの光景は、片時も忘れません。
通るたびに全てを思い出します。

この時から部活動参加の個人的な熱量は、高まっていきました。
それは、もちろん先輩が引退し、試合に出られるからという理由によるものもありました。
しかし、ある一大プロジェクトが部活動内で端を切ったという理由が
主なものでした。

当時の府立大サッカー部に来る人というのは、様々でした。
前回も説明しましたが、おさらいしておくと、
京都府立大学の生徒はもちろん、同志社、立命館、京都産業大学など、
他大学からも部員を受け入れていました。
インカレといえばインカレですが、サークルというよりは体育会。
なんとなく、サークルと体育会の中間に位置するような部活動だったかもしれません。

出身高校にレベル的な差異はなく、
私のような下手な人間も、強豪とは言わないまでも強いと言われる学校の出身も在籍してました。

私の同期たちも例にもれず、様々なバックグラウンドを抱え持っていました。
この出会いは、私が年金を受給する立場になっても、
一生の宝だと胸を張って言えます。

私の同期の中には、静岡の古豪出身のGKが在籍していました。
Hくんと呼ぶことにしましょう。
Hくんは私たち同期の主将的存在でした。
トレーニングに関しても、部活動以外のことでも
私たちを引っ張っていく存在でした。

今考えてみると、このHくんとの出会いが、私がfootballの道にのめり込む
最初の出来事だったのかもしれません。

Hくんはサッカー王国静岡で育ち、古豪と呼ばれる高校を卒業し
府立大へ入学しました。
Hくんは京都という街に一つの疑問を持ったのです。

「footballが薄すぎる街だ」

そう思ったんでしょう。
京都府立大学サッカー部をより強く、より有名にし、
スポーツで京都を満たしたいと考えたのです。(個人的拡大解釈に基づく)

部活動内でのあるプロジェクトとは、
府立大サッカー部が強くなり、
地域を代表するという目標のもとで作られたのです。

私はこのプロジェクトに壮大に巻き込まれていくのですが、
それはまた次回にしておきます。

冬、別れ





冬が進みました。
誰かとの出会いは誰かとの別れ、と言います。
私にとってやるせない1月。

私は一人の友人との関係を切ってしまったのです。
この友人をイニシャルから、Kと呼びましょう。

Kとの出会いは高校でも大学でもなく、
小学校でした。

Kは元来から傲慢で、論理的でありながら
少しは狂暴性も見せるという難儀な人間でした。
私たちの小学校1学年2クラスのみだったので、
私は何度もKと教室を共にしました。

私も彼に負けず劣らず、やんちゃで嫌われ者だった気がします。
Kには何度か暴力を振るわれたこともありますが、
Kだけではなかったと思います。
私もいづれかに暴力を振るっていたやもしれませんが、
人間というのは自分が加害者であるということを
都合よく脳内から削除する生物であるので、
私は私の暴力について関知しません。

私たちたちはそう意味で、獣だったかもしれません。

Kの家族は見るからに教育的というか、
英才的だったかと思います。

Kの兄は地元の優秀な高校に進学しており、
K自身も中学受験だったのです。

私たちはKを一目置いていたのかもしれません。
身体も大きく、足も速く、賢く優秀そのものであり、面白かったからです。

地面に叩きつけられ、鼻から血を流す私を見下ろす
Kの仏頂面は懐かしい情景です。

私は小学校卒業と同時に、転居してしまい、
別の地域の中学校に通い始めたので、
私立中学へ進学したKと離れたのはもちろん、
ほとんどの友人とは進路を別にしました。
(私が他人との会話を忘れてしまう時期に入ります)

それ以来、Kの近況など知る由もなく、
2020年の2月(私が高校3年生の大学受験期)に
Kと再度交流する機会がありました。

突然、Kが私のLINEにメッセージを入れてきました。
なんでも共通の知り合いから私のLINEを入手したようでした。

「元気か?」
「元気やで。Kは?」
すぐに既読が付きましたが、返信は5分ぐらい後に来たのを覚えています。
「うん」
「Kって高校どこ?」
また、既読が即座につきますが、返信はかなり時間が経った後でした。
私は、あのKだから地元の名門高校だろうな、というぐらいの認識でいました。
すると
「今は行ってないねん」
私は悪い予感、というより、K自身に何か良からぬことが起こってしまったのでは、という直感を働かせました。
私は次のメッセージをわざとKに送ったことを覚えています。
「まあ受験期だからね。Kはどこ受けるの?俺は大阪市立大学や」

「どこも受けへん。大学行かへん。」

衝撃的でした。
Kは繰り返しますが、私たちの小学校の中で、この人間は出世するだろうなと恐らくほとんどの人間が思っていたほど優秀でした。
ここに、児童の妄想的、楽観的な観測があろうと、
Kの動向は衝撃的だったのです。

続けてKより
「電話できるか?」
ときました。
首が絞めつけられ、
身体の奥底から何かが暴れていくような感覚がしました。

高校の最寄り駅のモールで昼食を調達していた私は、
すぐさまKの電話に応えることができましたが、
「電車中やからあと5分ぐらい待って!降りたら掛ける!」
そうメッセージを送りました。
「わかった」

文面からでもKの発声を想像できるほどKを理解していた私は、
モールの2階にあるベンチに座り、彼が何を言い、彼に何を言うか、
シミュレーションを試みました。

何も思いつきませんでしたが、
時間ばかりが過ぎていきました。

私はついに、Kに電話を掛けることを決意したのです。
生まれて初めて、Kに電話を掛ける瞬間でした。


今回はここまでにしておきます。
話はそれましたが、大事な思い出です。
③へ続く


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