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鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』を読んで。


お久しぶりです。たまねぎ。です

更新を怠りすぎましたね・・・
書きたいときに書くのが「たまねぎ。流note」なので、まあいいか!(すぐ正当化する)

そんなことはさておき、今回は鷲田清一著『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書、1996年)という著書を読了したため、内容を簡単にまとめていきます。

同書は「私ってだれ?」という問いに対する答えの重要な手掛かりになると思います。
なぜそのように思ったのか。その理由を以下で紹介する。これが今回の記事の内容です。


同書で、鷲田先生が伝えていること。

それは「<わたしはだれ?>という問いに答えはないということだ」。(176頁)


「私ってだれ?」
私はこの問いに答えを与えなきゃ、とどこか追い込まれているような感じがしていました。

半年ほど前に書いた私の記事から読み取ることができると思います
以下の記事をご覧下さい。

しかし、同書を読んでこの焦燥感から解放された気がしました。

皆さん、自分自身の身体のことわかりますか?
背中、自分の顔…直接自分の目で確かめることはできません
頭が痛い…病院に行って、お医者さんから病状を伝えられるまで病気かどうかわからない

そんなことを考えてみると、自分で自分のことを理解することなんて途方もないことのように思われる。鷲田先生はドイツ哲学者ニーチェの言葉を引用してこの自己理解の困難さを表現していました。

「各人にとってはじぶんじしんが最も遠いのである」。(19頁)

(この一節はよく見たことあるのですが、ニーチェ当本人の文章を見たことがない)

そこで、鷲田先生はこう提案します。

「わたしは『なに』であるかと問うべきではなくて、むしろ、わたしは『だれ』か、つまりだれにとっての特定の他者でありえているのかというふうに、問うべきなのだ」。(104頁)

これは私独自のものなんだ!オリジナルなんだ!
これってきっと常に他者との関わりのなかでしか出てこないと思います。

したがって、「私ってだれ?」という問いへの答えに近づくためには自分だけを見つめるのではなく、私の周りにいる他者に目を向けなければならないでしょう。

鷲田先生は、私という存在を≪他者の他者≫であると定位する必要があると述べています。ここで≪他者の他者≫とは、私がある他者にとっての他者の一人であるということです。

私という存在は常に他者との関わりのなかで現れてくる。
これは漠然と私のなかで考えていたことなので、本を読み終えた後なんだかスッキリしました。


まとめとして。

「私ってだれ?」という問いに答えはない。
自己理解するとき自分自身に眼差しを向けるのではなく他者に眼差しを向けてみる
そうすると他者にとっての私とは…?が見えてくるのではないか。
そのときの私は、あくまでも関わる他者にとっての私。固定された私ではない。可変的。
→このことをもっと突き詰めて考えてみたいと思います。

以上、『じぶん・この不思議な存在』という本を読んで「私ってだれ?」という問題を解決するためには他者問題を取り扱わなければならないことが明確になりました。

皆さんも是非この本を読んでみてください!とても読みやすいです。

最後までこの記事を読んで頂きありがとうございました。


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