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【自分の文化を取り戻す】 - こんなにも豊かに似ていない世界で

玉ねぎのヘタを切り落としたら、断面が生き物の目のように見えて驚いた。睨まれている。まるで「おまえはイマココに生きているのか?」と問われたようだ。

しばらく体調不良でキッチンに立つことができなかった。少し落ち込みつつ、野菜室にたまっている野菜を切って冷凍していく。目の前の野菜がどんな様子か見ていると、同じように「玉ねぎ」とラベルが貼られるものだって様子が全く違うことに気づく。普段「人と人とは違う」なんて言っているわりに、自分が観察を怠っていた。玉ねぎだって「世界はこんなにも豊かだ」と教えてくれているのに。

玉ねぎの断面に魅入られてしまって、文章を書きたいという衝動に駆られる。冒頭の文章が頭の中に鮮明に浮かぶ。

いつもこうだ。
一度「これで何かを作りたい」と思うと、すぐに構成や、タイトルや、配色などを頭の中で考え始めてしまう。わたしの細胞すべてが「早く作ろうよ!!」と叫んでいる。こういう状態になると、本当にそわそわと「作るもの」のことしか考えられなくなってしまうので、できる限り早く制作することにしている。でも、もっと早く制作に取りかからなければ、とも思っている。


昨日、Twitter(X)で、スペース「村中先生と語る、発達障害の仕事術」を聴かせてもらった。

お二方とも、本を読ませていただいていたり、活動を見させてもらっているので、すごく楽しみにしていた。そして村中先生の「人間同士、こんなにも豊かに似ていないんだよ」という言葉を聞いて、ふっと自分の中の今までの経験が一つに整列して目の前に現れた気がした。

今までわたしは「人と人が違うということが歓迎されやすい場所にいた」ということに今更ながら気づいた。それは、美術を専門に学ぶ場だった。

美大受験を経て専門学校に進んだ頃は、毎日がアートフェアみたいだった。全員が全員、違っていた。流行とはまったく関係なさそうな音楽にドハマりする人、急に足袋を履いてきて周囲をびっくりさせる人、毎日下駄で登校して「アスファルトだとすぐすり減るから大変だ」と言う人、特定の課題しか学校に来ない人・・・

彼らの行動を「すごいなあ」と見ているだけでも楽しい。「その服どうなってるの?」と聞くと嬉しそうに教えてくれる。みんな誰かに押しつけることもなく、ただ自己完結的に見えたし、それをわたしは好ましく思った。中学高校で同調圧力的に「オタクに見えないように」茶髪にしないといけないと感じたのとは全く違う。みんな、それぞれ色々な悩みはあっただろうけれど、とても自由で、自分の表現だけに向かって突き進んでいた。課題で一つのテーマが与えられても、全員違う答えを返す。むしろそれが評価されたし、被ってしまわないように全員必死だ。

もちろん、美術の世界がみんな平和だったとは思わない。あれこれややこしいこともあったのかもしれないし、昔のことだから記憶が美化されているとも思う。でもわたしはそういう世界が大好きで、心地よかった。

そして、自分が望んで飛び込んだ美術の世界の脈動は、卒業して社会に入ってからも止まることなくわたしの身体の深部に走っていたのだと実感した。美術系は気合いを入れないと社会とズレてしまうから・・・と構えていたのに、それでも卒業後のギャップを乗り越えられなかったのだと思う。

わたしのASD特性によって幼少期は常に不可解な謎解きの戦いの中にいた。でも、ほんとうに壁にぶつかったのは社会人になってからだったのだろう。そう感じたのも、美術系学校でのびのびした後だったから。とはいっても美術の勉強を必死でやっていた頃も、鬱になったり色々なことがあった。

美術系の空間は、ある意味での異文化交流とも言えた気がする。数年前からリアルな異文化の人間関係に心地よさを感じるようになったのも、必然のように思える。本来は、どんな人と交流していても異文化交流と言えるのだと思う。わたしがASD特性を持っているから(神経多様性少数派)、ということに限らず、みんな当たり前にとっても違うはずなのだ。今でもみんなが思い思いの方向に進んで自由に過ごしているような場が大好きだし、心地よいと感じる。

そういえばわたしは、普段「これを見る人は多くないだろうな」というところに目がいってしまう。道端の花や、飲み物の表面がキラキラしているところや、ユニークな形の植物の影のような。

人と接しているときの目線はだいぶ訓練したのでそこまで不自然じゃないと思っているのだけど、リラックスしていると自分の視線がとても自由になるのがわかる。注意対象を誰かと共有しなければいけないとき、わたしのこの注意は「間違い」になってしまう。だけど、失いたくないから大事に持っている。自分自身の目線は創作の種であり、生きる喜びだからだ。

人ときっと違っているであろうことを、抱きしめていきたい。誰一人、自分以外の世界の感じ方を体験することはできないのだ。誰かの「違う」も、そのままに自由に伸びて欲しい。

今日、玉ねぎの断面にドキッとした自分が嬉しかったし、まだ見えている、まだ感じられていると思えた。嬉しかった。今日、この文章の中で今までとは違ったことが書けた。玉ねぎから得たインスピレーションで文章って書けるもんなんだなあ。自分にしかないこの世界の見方を、違っているかもしれないからこそ見つけられるものを、もっと大切にしていきたい。

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