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自分の文化を取り戻す - 自分自身の編集

珍しく、人としっかり対面する土日を経て、頭の中に溜まっていた思考を少しずつ指先まで運ぶ。
指先からキーボードへ、そして日本語のフォーマットに納めていく。

この一連の流れは、日常の営みに似ている。
乾燥機に仕上がった洗濯物をそれぞれ合う形に畳んで、属する場所に適した形で収納していく、そんな感じだ。
思考は適切に納めたほうがいい。
わたしの思考そのものは日本語ではないし、ましてや他の言語でもない。わたしの思考はわたしの知覚できない形で自分の中に存在していて、それを今は日本語にチューニングして出力している。これが絵のときもあれば、図のときもあるし、他の言語のことも、音のこともある、というだけ。

ただ共通しているのは、「出力」をしなければいけないということ。
普段、人に見せるかどうかは別にして出力をしながらバランスをとっているから、入力したぶんを出力する必要がある。朝の家事を終えて今ただ書けるこの時間まで辿り着けたことにほっとしている。

久しぶりにある程度の人数の人たちと会って話すことができてすごく濃密な時間を過ごした。その中で、人と会うときの「自分を編集して出す感じ」がうまくできなかったなと気づいた。久しぶりだったから、うまくノウハウを引っ張ってこれなかった。以前もっと人と頻繁に会っていた頃は日常だったのに。でもこの変化も面白い。

人と会話する時に、その人が求めていること・その場に求められるわたしの立場を感じ取り、理解したらそれに合わせて自分の情報を編集して出す。

まず、共通項を洗い出す。
”年代”
”性別”
”共通の興味”
”お互いの生活環境”
”最近の世の中の流れ”
・・・
と出した中から「この場ではどれが優先されそうか?」「この項目について相手は話したい気持ちになっていそうか?避けるべきか?」「話のスパイスとして意外性のあるわたしの情報を提供すべきか?」と並び替えていく。話しながら相手の表情や声のトーン、話しぶりの情報を加味し、話の流れを分析して、必要に応じてこちらのリアクションを加える。

文字に起こすとずいぶん、大袈裟な感じになってしまう。でも、わたしは会話するときこういうエネルギーの使い方をしていると思う。リアルタイムで計算をし直しながら対応していく。たぶん負荷は高くて、人と顔を合わせて話しているとき、すごく汗をかくことが多い。

この感覚はパッチワークに例えるとしっくりきそうな気がする。
カットしてある布がわたしの中に「ラベル」としてたくさん存在していて、相手の中にもある布を見させてもらいながら、じゃあ自分はどんな合わせ方をしたらいいんだろうと考える、そんな感じだ。

自分がないのか、と言われたらそんなことはない。でも自分を取り巻く情報量をそのまま相手に見せてしまったら、負荷を押し付けてしまう。だから人と接するのには強めの編集がいると思っている。
こう思っているぶん、一人で分類にこだわらず出力するような時間が欠かせないのかもしれない、と思った。

日曜日、オーケストラを見た。
小さい頃から音楽が好きだったからたとえば吹奏楽に興味を持ちそうなものだったけれど、中学の時はテニスと英語とインターネットに魅入られて、ピアノ以外の楽器はほとんどやったことがない。ピアノは一台だけでオーケストラを完結させることができる。一人で完結できることがわたしにとって重要だったのかもしれないと思う。
ピアノにキラキラ輝くものを見出してどっぷりハマった、3歳とか4歳のときにそんなことを考えていたのかはわからないけれど、甥っ子や姪っ子を見ているとそんなに小さい年齢から何か軸を持って物事を選んでいるようにも見える。

今年で40歳になったけれど、両親から聞く自分の幼少期と何も変化がないようにも感じる。そう考えるとパッチワークして自分を出すみたいな習慣は自分の意志で獲得したものだ。優劣をつけることはできないし、する必要もないと思う。こうやって生きてきただけだ。変わることも、変わらないことも必要なんだと思う。



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