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自分をやっつけようとする自分に気づいた、ここ最近のはなし

家に置いてあった野菜ジュースをチュウチュウし、QueenのBohemian Rhapsodyを聴きつつ、足の裏で百均のツブツブしたボール的なものを転がしてこれを書きはじめたところです。
今日の神奈川は少し雨も降ったし、1日を通して曇っていました。
服はすっかり、長袖です。
もう半袖に戻るような気温にはならないんだろうか?

先週忙しくてバタバタしていて、今日はやっと自分のリラックスタイムであるノートかきかきができて、ほっとしています。
わたしは紙に何かを書き(描き)出すことが癖のようなところがあって、正直なところ書いたものの量に困るくらいでした。
「こんなに大量に紙を使っても何の意味もないのでは…?」という疑問にたびたび飲まれてしまって、脳内で完結させようという無謀な試みをして敗北したり。
「手書きすることは脳にいい」みたいなこともよく聞くし、もうちょい自分や自分の書いたものを肯定してもいいのに、とこれを書きながら思うくらいなのですが…
なぜかそういう葛藤を抱えがちです。

そんな中、自分にとっての「手で何かを書くこと」には必然性があるんだ、という思いも強くなりました。
(必然性がなくたって書いていいんだけれどもね)

それは、最近Twitterでは少しずつ書いている自分の発達特性(ADHDとASD)につながることでした。
これは、特性のことを知らずとも自分自身がうっすら感じ取っていたことでもありました。なので、過去のnoteでもこんな記述がたくさんあるかと思います。
どうもわたしは、自分の心や体の調子をリアルタイムに掴むのが苦手なのでした。
人と会うと楽しいから元気な自分になりたくて無理するし、仕事があれば頑張ろう!と張り切る。
それがいい方向に結びつき、自分にも無理が来ないのならいいのかもしれませんが、わたしはどうしても自分のキャパシティ以上の力を出そうとする傾向があります。
なので、気がつけば「自分の大事な一部のはずの心と体」が、ずーっと後ろに置いてきぼりになって倒れている、みたいなことが今までたくさんありました。

そういうとき、わたしは今までどうしていたでしょうか。
自分自身を叱咤激励していました。
ほら、まだやれるよ!
強い言葉をかけて無理やり引っ張っていました。
体調がいよいよ悪くなると、なんでできないの!とさらに強い言葉で自分を言いなりにしようとしていました。

休むということもよくわからなくて、限界まで何かをやろうとして、もうやれなくなるまで強行突破しようとしていました。
そういうことにやっと気づいたのが、ほんとにここ数年のことです。なんなら今年かもしれない。
こういった自分をいじめすぎるループに気づいたのもまた、過去に自分が残してきた大量のノートや文章でした。


これは…思ったより時間をかけて書いていくことだな?🐤察し
となったので、続けて書いていきます。

手帳もノートも大好きで、今までたくさん試しているのですが
今はじめて「もっと自分を休めてケアするために使おう」ということを考えています。やっとこういうふうに考えられるようになったのだ、と少し泣きそうです。

こちらを参考にさせてもらってやってみよう。

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