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両親を見送った手が、過去と今をつないだ

10月末の土曜日だというのに、急に思い立って両親を近くに呼び出して、3人で食事やカラオケを楽しんだ。たくさん話そうと思ったことがあったのに思えば笑ってばっかりでちっとも話せていない。本当に楽しい時間ってそういえばこういうもんだよな、なんて思った。

少し前から「父ともっと話してみたいな」と思い電話で話し込むようになった。本当に私のやっていることほぼ全てに影響をくれた人だ。逆に何も関係がないところってどこだろうね、とトンカツをほおばる父に聞いたら「男か女かくらいじゃない?」って言っていたので笑ってしまったけど、お互いそう思うんだから本当に似ていると思う。

30代になって改めて親が人生の中で感じてきたことや、子どもの私に対して思っていることを聞くと、納得することもあったし、知らなかったこともあった。違う視点から同じ物事をみていることもたくさんあった。

そして、ずっとわたしの心の中のしこりになっていたこと。もう10年以上前に亡くなった大好きなおばあちゃんのことを、ずっと消化できずにいた。

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わたしを溺愛してくれたおばあちゃんは大きな存在すぎて、失ってからわたしの心は思いっきりバランスを崩し続けてきた。おばあちゃんに会いたいと同じ場所に行けることを願い続けているような感じでいつも地に足がつかない。お墓参りに行っても、生身のおばあちゃんに会えないのだから行く気も起きなかった。

「でもなんかそろそろおばあちゃんのお墓に行こうかなって気になってきたんだよね。色々話したいから一人でさ。」と電話口の父に話した。多分話している間にすっと気持ちがほぐれたから初めてそう思えたんだろう。すると父はこう言った。

「まあさ、遠いしみんなで行こうよ。お墓に手を合わせるのもそうだけど、家族が集まる、それも死者の役割みたいなもんだと思うよ」

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「死者の役割」なんて、考えてもみなかった。目から鱗どころじゃなかった。お墓にはまだ行っていないけれど、なんだか全てが大丈夫だと思えた。

今日のカラオケで母と二人で同じ曲を一緒に歌っていると、父は「声が似てるねえ」と笑っていたので、「どっちがどっちテイスト?」なんて聞いたりした。趣味で長く歌っている母に「最近下の方の音が出しにくくなったんだよね」と聞いたらコツを教えてくれてすぐにうまくできた。母との関係を掘り下げてずいぶん時間をかけたし、たくさん傷つけてしまったけどいつの間にか底は打っていた。それは具体的な何かではなくて、すごく感覚的な瞬間があった。やさしい雨の日に「母はこうやってわたしを愛してくれていたのかもしれない」と思えたことがあったのだ。

二人にお礼を言って、改札を抜けて遠くに行く姿に手を振っていた。

そこで、バッと大切な思い出がよぎった。

手を振るおばあちゃんの姿だ。

大好きなおばあちゃんの家で学校の休みの間ずっと可愛がってもらっていたわたしは、帰る頃になると嗚咽するほど泣いてしまうのを止められなかった。それでもどうしても家に帰らないといけない。父の車の後ろの窓に張り付いて、号泣しながらおばあちゃんに手を振り続ける。しばらく車を進めると角を曲がらないといけない。そこでおばあちゃんの姿が見えなくなって、わたしはまたドッと泣く。姿が見えなくなるまでずーっと、おばあちゃんは手を振り続けながら、わたしたちを見守ってくれていた。もしかしたら角を曲がった後も、しばらくそこにいてくれたかもしれない。

その大切な思い出がふわっと浮かんで、目元に涙を呼び起こすままに、わたしも両親の姿が見えなくなるまで手を振った。

そんなことをわたしはしたことがなかったから二人は気づかず振り返らなかったけど、それでもよかった。そこで泣けたことで、何かが救われた気がした。わたしはおばあちゃんと、両親と自分と、昔の時間と今の時間がつながったのかもしれない。そしてそれは、ずっと気づかずに心の奥深くで求めていた愛情のひとつなのだと思う。

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