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表現のための、たったひとつの水脈

毎日書かなくたっていいのだ。でもいいリズムだから、このまま書いてみよう。午前中に家事や用事を済ませてほっと落ち着いたタイミングでキーを叩き始める時間が最近とても好きだ。

何かの「好き」は、すごく根源的なところにあるような気がする。「キーを叩く感触が好き」「紙とペンの擦れる音が好き」みたいな、動作だったり、現象だったりするところ。たとえばスマホでも文章を書くことはあるけれど、物理キーボードを使って書くほうがわたしはずっと好きだ。指が動いて音が鳴るということ自体を求めているんじゃないかと思う。

ただの行為者になりたい

何かをやってみたら返ってくる、それを見て新しい動きを加え、また返ってくる。そういう繰り返しそのものが好きだ。

繰り返し繰り返しそのループが続いていくと、自分がなくなっていくように感じる。その感覚が好きだ。繰り返される行動と反応の中で、「わたし」はどんどん、ただの行為者になる。日頃つきまとっている、ややこしい自意識は消え去る。「人としてうまく振る舞わなければいけない」とガチガチになっている自分の苦悩も吹き飛ぶ。

わたしのASD特性はよく過集中を引き起こす。以前はもっとコントロール不能で、うっかり作業に没頭して徹夜してしまい、その後に倒れたりもした。

ものすごい集中状態に入ると心地がいい。時間の概念を忘れるというよりも、時間なんて最初からなかったんじゃないかと思えてくる。過集中の時間がもともとのわたしのホームなのではないか、普段の時間の中で過ごしている間、わたしは「借り物」なんじゃないか、なんて思うこともある。

一時期、「本当のわたし」を探すことに躍起になっていた。

小さい頃から頑張って社会に適応してきた自覚があったから、いつも「今の自分は作った自分で、本当の自分はこうじゃない」という後ろめたさがあった。どんな人でもペルソナを持ち、場面によって使い分けていることを知っていてもなお、自分を作り過ぎているのではないかと不安だった。「頑張って適応したい」という思いと、「本当は頑張りたくない」という思い。そして「本当のわたしを見せてしまったら嫌われてしまう」という確信に似た不安。

その不安に折り合いがついたかと答えるとするなら、曖昧に「う〜ん…」と答えるような状態だ。でも、そんな状態でいいのかもしれないとも思っている。書いている時いつも過集中なわけでもないから本来の自分に戻ったような気も特にしないのだけど、「ただ書けて楽しいからいいじゃない」というところに落ち着く。そうすればとてもシンプルだ。シンプルなことはいい。思考がやたらめったら広がらずに済む。

本当の自分、本当の表現

一昨日、noteを書いたあとに絵を描いていたら、自分の左手が細かく震えていることに気づいた。アクリル絵の具を乾かしている間に目に入った震えは、それ自体は何も話さない。わたしは決めつけなかった。絵を描くのが怖いと思っているのかも、と思ったけれど、決めつけなかった。実際に起きていることに過剰な意味づけをしてしまいがちだから、ただ「震えている」と捉えることにした。でも、こんなふうに「決めつけなかった」と書きたいぐらい、本当は絵を描くのが怖いんだと思う。

イラストレーターからアートに転向して、そのあともイラストの仕事をさせてもらったり、誰かの求める絵を描かせてもらう機会があった。それに対する存在として、自分のアートを捉えていた。何かのために描くわけじゃない、自分の本当の表現。

もしかしたら「本当の表現」なんてないのかもしれないと思いながら描いている。以前はもっとその二つがパキッと分かれていた。でも、そもそもどちらも描くのが同じ人間なのだから、変えようと思ってもたいして変わらないかもしれない。今書いている文章にだって自分らしさがシャンプーの香りのように漂っているだろうし、自分で気づきようのないところにこそ出てしまっているのだと思う。「本当のわたし」だって、未だに自分だけがわからないままで、周囲の人たちはとっくに知っているのだろう。それと同じだ。常に根底には漂っている。

移動したら、元の場所がわかる

延々に漂う自分という水脈から汲み取ったものが表現なのかもしれない、とぼんやりと考える。

イラストとアートって言葉でわけてみるけれど、出てくる根源としての自分は一人だけだ。これを文章を書くことと比べてみたって同じ水脈から引いている。どうしたって流れているのだと思う。その流れを、どう汲むか。どんな井戸を掘るか。やり方は色々あっても、水脈はたったひとつ。

水脈の流れに身を任せる。どこに行くのだろうとわくわくしても不安になっても、どこかに行き着くことは変わらない。新しい何かを見つけるつもりで全く新しくないものに行き着くかもしれない。

毎日なんとなく飲むコーヒーをそんなに意識はしないけど、ふと銘柄を変えた後「あのコーヒーは実は苦かったんだ」と気づいたりする。移動していった後しか、違いに気付けない。のんびりと、進んでいったらいいのだと思う。今見える方向へ。時々、水の中でふわふわして。思ったところにたどり着ける保証はどこにもないけど、今とは違う場所にいって、そうして今の場所を教えてくれる。

時間と余裕ができたら振り返ればいい。自分だけの水脈に抗うより、その流れを感じ取って無理のないように流れていってみたい。


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