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自分の文化を取り戻す-足下

やっと目の疲れがとれてきた。
ポメラで思う存分に自分のためだけに脈略のない文章を書き、「またnoteをたくさん書きたい」という思いが自然に指先から文字を打たせた。やっとまた楽しく書ける時が来たのかもしれない。

わたしは活字中毒だ。
言葉にできることは全て言葉に置き換えてしまいたいとすら思っている。その裏には「言葉というものが根本的に好き」という嗜好の部分と、またそれと相反するような「言葉に表せないものをわたしはいつも掴み損ね、人の気持ちを蔑ろにしてしまう」という実体験を含んだ確信が存在している。
全部がその通りになるなんて、非論理的だということはわかっているのだけれど。

そう、こういうときわたしは、「そんなに悪いことにはならないって頭ではわかっているけど」とよく口にする。
最近になってやっと、それをそのまま自分を励ますことができるようになってきた。

「そんなに悪いことにならないから、大丈夫だよ。」

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声かけは、自分の過剰適応を自覚してから変わってきたことのひとつだ。
頑張ったね、とか、疲れたね、とか、そんな声かけを自分に対してするようになった。
今までのわたしは、自分を責め続ける声かけをしていた。
「まだまだ!」「なんでできないの!」と、叱りつけるように。
そうしないとわたしのだめなところはこのままになってしまうと、恐ろしくて仕方がなかった。


はあ、けっこう書いた。
伸びをする。ぐーっと。
疲れたあ。

伸ばした指先の影がMacBookの上に落ちて、複雑な形を描く。
影絵遊び、したいなあ。
小学生くらいの時はずいぶん影絵遊びに夢中になった気がするし、未だに影で遊ぶことが好きで、よく影の写真も撮る。

高校生でちょっと高級なカメラを手に入れたとき、足下ばかり撮ってしまうことを、後ろめたく思ったことがある。
人も撮ろうと思ったけれど、どうしても怖くてできなかった。それに、そこまで人の姿を撮ることに興味がないとも気づいた。興味のなさは今も変わらず、相変わらず足下の植物や、自分の足や、影の模様みたいなものばかり撮っている。

思えば、苦手なことの克服に命をかけてきたような人生だった。

今や、必要ならば人前で明るく喋れるし歌えるし、人前で絵を描くことも、緊張しそうな会合でも「堂々としてるね」なんて言われるくらいには振る舞える。そういう活動は好きでもある。
それでもやっぱり人そのものに緊張しているのは変わらない。たぶん、これは根本的に。自分だって人のくせにねえ。

今は、少しだけ自分に寛大になった。
「影だって綺麗だから、撮ったらいいじゃない。それだって楽しいよ」と思う。わたしの影の写真より誰かが撮った人の写真が好みだって言われたら、そうですか、でいい。もし仕事で人を撮らなくてはいけないなら頑張ってもいいけど、それもまあ断ったっていい。要するに、人の性質や、好みみたいなものは、ほとんど変わらないもんなんだと思う。だから自分が自分に合わせたほうが、きっと無理がなく生きられるのだろう。

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