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職業とは何か、生活の糧、生きがい、暇潰し、そして世間体

 ある意味、私にとっては終わったこと。反省を込めて、もし次の世界があるなら、それを踏まえて生きてみたい。と思うものの、ゲームのリセットと同じで、結局は、似たような選択と結果に終わるのが落ちである。

 偉い基督系の修道女さん、「落ちたところで咲きなさい。」、よく調べもせずに書いているから間違いかもしれない。「落ちた」とは、花の種として世界に生まれたという意味合い、たまたま落ちたところ、意思の結果としてではなく、運命で着いた場所で、どういう状況であろうと、がんばって、そこで咲きなさいとのこと。環境に苦情を言っても、言うだけ時間と労力の無駄、そこで最大限の努力をするという風にとった。

 貧しい、そんなことを言ったら親に叱られる。貧しいとは思わなかった。比較の対象があるから貧しい。親類や知人友人、同じ境遇であれば、貧しさはない。変に、両親は、商売人で金は比較的潤沢な家庭で育った。しかし、両親は、戦争や疎開で、その基盤が揺らぎ、おぼっちゃま、お嬢様育ちは、戦後の混乱のなかで埋没、浮き上がろうともせず、また、できず、親類等に比べて貧乏生活を送った。

 それはそれでいい。その風当たりを子が受けた。それが残念。衣食住が不足ではない。ストレス・不満が子に当たる。それがつまらない。

 そのことはそのこと。

 自己責任ではある。引きこもりの後、故郷を捨て公務員になった。

 それで生活は安定した。

 定年後、再任用に再就職やアルバイトで65歳までは稼働した。

 それだけである。

 もっと危ない橋を渡れば、もっと自分を活かせて、愉しい暮らしがあったかもしれない。もう遅い。反面、思うどおりにならず、厳しい生活、父親と同じく、転職を繰り返し、子供らにつらい思いをさせたかもしれない。

 すべては、かもしれないで、しかも終わったことである。

 それを踏まえて、孫たちを見ると、好きなことを職業にしてほしい、一方で堅実に、日々の衣食住に困らない、安定して、朝が来て夜が来てって感じの生活もまたいいよと言いたい。

 それは本人たちの自由と権利。

 青春時代に戻ればどうなのか、本心、もういいわ。

 正直、もう年かなって思う。生きるのは大変だ。

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