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最近、ふと思う事がある。
—私が死んだ後、「この世は」どうなるのか—
恐らく、ほとんどの人は「死んだら『自分は』どうなるのか」...こう考えているだろう。
この肉体が滅んだら、その後もこの世は自分と無関係に続いてゆく...。まぁ確かにそう考えるのが普通だし、私の視点から見てもそれは明らかだ。
私の身の回りで死んだ人もたくさんいる。こうして文章を書いている間にも、どこかで命が儚く散っているのだろう。
でも、私はそれによって消えて無くならず、今もこうしてこの世に「在る」。ならやっぱり、普通に考えて良さそう...かもね。だが...
この現象が私にも起きるとは限らない。
クレイジーと思ってもらって構わない。ただ、断言しても良いが、私をクレイジー呼ばわりするそこのあなたは、この理論を完全否定する方法を持たないはずだ。
今までは、ふと「この世って何なんだろう」とか、「俺って何なんだろう」とか考える瞬間があった。
でも、今は少し違って来ている。ちょっとした瞬間、「死」を連想する様になった。
私が消えて無くなるとする。そしてこの世がブラックアウトする。その先は?この世は「在る」のか?そこのあなたはまだ、この世に「在る」のか?
聖書「ガラテヤの信徒への手紙」にこうある。何度か紹介している一節ではあるが...
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 」
蒔いたものを、刈り取る...
蒔いたものを...
刈り取る...
この世は、私がタネを蒔いた結果かもしれない。
それにしても、「刈り取る」とは?
この世においては、我々は収穫物を食べ、命を存続させるが...ここも逆転しているのだろうか。だとしたら...本来、収穫物は何に使うのだ?というか、「刈り取る」という行為自体、正解なのか?
この世自体が「植物」であり、後に「収穫」が待っている。こう仮定するなら...
私は、これを刈り取る日が来る...のだろうか。
だとしたら、それは「この世」が終わる時だ。終わるというか、「一区切り」というか。
よくよく考えてみると、夢だってそうじゃないか。
当たり前だと思うかもしれない。でも、なぜそこで「当たり前じゃん」って思うのだ?
夢の中にいる時は私しかいない。その確信が持てる。みんなもそうでしょう?「夢は自分の脳が投影したもの」と思っているなら特に、さ。モチロン、自分以外の人間が登場するには、する。でも、そういう事じゃなくてさ。
夢を見ている時、「ああ、一人じゃ無い。夢の中でもみんなと一緒なんだ」と実感できた人はいるかい?私の場合はむしろ、痛烈に「一人」を理解しながらそこにいる。
何度も言うが、確かに夢の中の設定によって、登場人物はいるよ。...でもこれ、この世とどう違うんだ?そして、覚醒とともに夢...すなわち「その世」は終焉し、また「この世」がスタートするでしょう。我々はこれを、毎日繰り返しているんだ。
結局のところ、この現象自体がフラクタルで、この世にも同じ事が言えるのかもしれない。
ただ、夢が終わる際に「刈り取った」感じはしないね...。以前も言ったけど、この「刈り取る」という表現に関して、しっかりと理解しないといけないな。
漢字が真理か誤誘導かは分からないけど、「田」も「畑」も、この世の中心、というか...見たまんま、この世を表す文字だと思う。
「畑」に至っては「火」と「田」だ...。私としては、今までの考察とどうしても、繋げてしまうかな。
...とにかく、だ。
そう考えると、「終活」のナンセンスさはハンパじゃないね。無意味もいいとこ(今回の理論が合っていれば、だよ)。そしてそれを推進する業者たち。
その全てが「ひっかけ」であり、「逆転の結果」であり、「茶番」なのかもしれない。
...嗚呼、この世は地獄なり。
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