ビヨンセ、アリアナ、森高千里…性差別にファイティングポーズをとるミュージシャン 初出:wezzy(株式会社サイゾー) 2019年5月3日

 筆者がたびたび寄稿していたウェブメディア『wezzy』が、2024年3月31日にサイトの完全閉鎖を予定しているそうです。そのお知らせの中で、「ご寄稿いただいた記事の著作権は執筆者の皆様にございます。ご自身のブログやテキストサイトなどのほか、他社のメディアでも再利用可能です」とあるため、こうしてブログに記事を転載しました。元記事のURLを下記に記載しておきますので、気になる方は閉鎖前に覗いてみてください。

元記事
https://wezz-y.com/archives/65099
魚拓
ページ1 https://archive.md/gG0fA
ページ2 https://archive.md/sBRwS

 いま、ポップ・カルチャーではフェミニズムを感じるものが多い。まずはファッション界に目を向けてみよう。グッチのクリエイティヴ・ディレクターを務めるアレッサンドロ・ミケーレが発表した2018年秋冬コレクションは、フェミニズムやジェンダーの観点からテクノロジーを考察するダナ・ハラウェイの論文、『サイボーグ宣言(A Cyborg Manifesto)』がインスピレーション源だ。ディオール初の女性アーティスティック・ディレクターであるマリア・グラツィア・キウリのように、“We Should All Be Feminists”と書かれたTシャツを制作する者もいる。

 映画界では、女性参政権運動について描いた『サフラジェット(邦題 : 未来を花束にして)』(2015)が作られ、ジェニファー・ローレンスは男優と女優の間にある賃金格差に言及したエッセイを執筆している。ウィメンズ・マーチでスピーチしたヴィオラ・デイヴィスやナタリー・ポートマンなど、より直接的な行動を取る者も多い。こうした動きを受けて、ベネディクト・カンバーバッチが『Radio Times』のインタヴューで共演女優と同じギャラでないと出演契約を結ばないと述べるなど、男性側からも具体的なアクションが出てきた。

 音楽界に目をやると、ビヨンセの存在が際立つ。MTVヴィデオ・ミュージック・アウォード2014におけるパフォーマンスで、スクリーンに「FEMINIST」という言葉を掲げたのだ。シスターフッドを促す「Formation」もそうだが、彼女はストレートに想いを伝えている。グローバルな隆盛を迎えるK-POPでも、サウスチャイナ・モーニング・ポストがフェミニストアイコンとしての可能性を見いだすアイリーン(レッド・ヴェルヴェット)など、興味深い存在が多い。

ファイティングポーズを避ける日本


 こうした波は日の音楽界にも及んでいる。その象徴と言えるのがCHAIだ。双子のマナ(ヴォーカル/キーボード)とカナ(ギター)に、ユウキ(ベース)とユナ(ドラム)をくわえた4人組バンドである彼女たちは、セルフ・エンパワーメント的な言葉を歌うことが多い。たとえば、ブロンディーの「Heart Of Glass」に通じるメロウなニュー・ウェイヴ・ディスコ「sayonara complex」では、次のような一節が登場する。

〈飾らない素顔の そういう私を認めてよ〉〈かわいいだけのわたしじゃつまらない〉

 これは自分の個性を大切にすることや、その姿勢を受けいれてほしいという願いが滲むものだ。それは“フライド”でも顕著に表れている。

〈ほんのすこし太ったわたし 迎えに行きたいの 愛してあげたいの〉

 「フライド」の歌詞は、べすぎて太ることを気にしたり、そうした悩みの根源であるルッキズム(容貌差別)の眼差しに批判的な姿勢が際立つ。〈ビッグガール ビッグボーイ Oh YES!〉といったフレーズも混ぜることで、女性以外にも届く歌にするなど、言葉選びの巧みさも光る。

 フェミニズム・ジェンダーの視点を積極的に打ちだすCHAIだが、戦うことには否定的だ。マナとユウキは後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)との対談において、インタヴューでフェミニズムに言及されることへの戸惑いを吐露したあと、以下のように発言している。

マナ「……戦わなくていいかなぁ。なんか、敵がいる音楽っていうの、あんまり想像できない」
ユウキ「戦うのは、嫌ねぇ」

 対談では後藤も戦う姿勢に対して一定の距離を置く発言をしている。こうした姿勢は日本において決して珍しいものではない。たとえば、コムアイ(水曜日のカンパネラ)がフェミニズムを語った朝日新聞の記事「男性に敵意むき出しせずに」も、やはり露骨なファイティング・ポーズを避けている。

過去の挫折から生まれた「怒り」


 そのような状況は、海外の音楽を聴いている者からすれば奇妙に映るかもしれない。海の向こうには戦う姿勢を隠さないアーティストが多いからだ。先述のビヨンセもそうだが、ここではアリアナ・グランデを例に出そう。かつてアリアナは、ツイッター上でジャーナリストのピアーズ・モーガンから女性差別を受けた際、こう返答している。

(中略)私は自分の才能とセクシーさを売りにしてるけど、それは自分がそう望んでいるから。女性はセクシーさと才能の両方を併せ持つことができる。裸でいるときも凛々しい威厳を保てる。どうするかは私たちの意志。そのことを人々が理解してくれるまで、私たちは戦いつづける(中略)」(筆者訳)

 また、この騒動の発端となり、ピアーズから攻撃されたリトル・ミックスへのエールでも、戦うことを推奨している。

戦う歌姫たち、これからも戦いつづけて。あなたたちの姉妹がついてる」(筆者訳)

 こうした温度差が生まれてしまうのは、日本と海外では共有されている文脈が異なるなど、さまざまな要因が考えられる。たとえば海外では、1990年代に新たな女の子(girl)像を打ちだし、ポップ・カルチャーとフェミニズムを積極的に交差させた有力ティーン雑誌『Sassy』が、脱政治化され過剰な消費文化に取りこまれたという挫折がある程度共有されている。『How Sassy Changed My Life』を出版したカラ・ジェセラとマリサ・メルツァーなど、『Sassy』に言及する者はいまも後を絶たない。さらに、タヴィ・ゲヴィンソンがWebマガジン『Rookie』を立ちあげた際には、『Sassy』との類似性を指摘する記事がNYタイムズに掲載されたこともあった(そもそも、『Rookie』はタヴィと『Sassy』の元編集長ジェーン・プラットが共同で制作する予定だった雑誌のアイディアが出発点だ)。

 これらの継承と振りかえりをふまえれば、ポップ・カルチャーとフェミニズムが再び密接となった現在において、戦う姿勢や怒りを表すことへの理解を示す者が多いのも頷けるだろう。いわば昨今のポップ・カルチャーとフェミニズムの交差は、過去に受けた仕打ちの雪辱を果たすための戦いでもあるのだ。そのような視座が、日本の音楽とフェミニズムの交差には足りないと感じる。

戦いはじめた/戦っていたアーティスト


 とはいえ、日本にも戦うことを公言するアーティストはいる。なかでも興味深いのはA.Y.Aだ。2012年から作品をコンスタントにリリースしてきた彼女は、多彩なサウンドを紡ぐ。R&Bを下地にしつつ、ヒップホップ、ベース・ミュージック、ロックなど多くの要素を上手く接合しているのだ。そんな彼女の発言は実に明快である。

 「大人になって大事なことや不平等に気づいて、やっと声をあげようとしている。でも、そんな女性のための歌がいま日本にはないよね。海外だったらフェミニストアイコンのアーティストがいっぱいいるでしょ? ビヨンセとかマドンナとか。そういう人が日本にいるとは思わない。言いづらいっていうのもあると思うけど。フェミニズム意識を持っている人があんまりいないんじゃないかなって思うんだよね。私は戦うアーティストでいたい

 この姿勢は音楽でも顕著だ。自ら解説するように、「Weekend Lover」では旧態依然な恋愛観に疑問を呈したりと、率直な心情を表現してみせる。

 A.Y.A以外にも、日本のヒップホップ・シーンのミソジニーを示したラッパーの椿や、フェミニスト宣言も記憶に新しいあっこゴリラなど、明確なフェミニズム意識を持ったアーティストは増えてきている。より議論を活発にするためにも、これらの動きは歓迎すべきものだろう。

 日本における音楽とフェミニズムの交差は、海外の動きの影響が強いと思われる。だからこそA.Y.Aは、海外のフェミニストアイコンへの親愛を示したうえで、日本の状況に対する不満を述べたのだろう。しかし過去に遡れば、明確なフェミニズム意識を持った動き、あるいはフェミニズムを感じる曲は日本でも生まれていたのがわかる。

 たとえば、アニメ『らんま1/2』のエンディング・テーマ「プレゼント」でも知られる東京少年が1988年に発表した曲で、その名もズバリ「性差別」というのがある。ドイツのニュー・ウェイヴ・バンド、プロパガンダに通じるサウンドをバックに、男女差別が蔓延る現実を痛烈に批判する内容だ。〈上っ面だけの雇用機会均等法〉といった一節は時代を感じるが(男女雇用機会均等法は1986年に執行された)、男はこうで女はこうという根強い性役割に向けられる怒りは、現在の状況とも重なる。30年近く経ってもほとんど状況は変わってないという失望も抱いてしまうが、フェミニズムの観点から日本の音楽を考えるうえでは重要な曲と言える。

 他にも、ウーマン・リブ雑誌『女・エロス』に「わたしはかけだしのつなわたり」という詩を寄稿した中山ラビ、小倉千加子がフェミニズムの観点から評価する松田聖子、舌津智之がフェミニズム批評の可能性を見いだす山本リンダなど、数は少ないが興味深いアーティストは存在する。


「立場利用して弱い者いじめは卑怯者だわ」と歌う森高千里


 そのなかで筆者が特筆したいのは、森高千里だ。1987年にメジャー・デビューした森高は、アルバム『古今東西』(1990)でオリコンチャート1位を獲得するなど、音楽界のど真ん中で活躍してきた。自ら作詞・作曲を手がけることでも知られ、ドラム演奏の腕前も高く評価されている。

 そんな森高の歌には、女性として生きるうえで遭遇する怒りや出来事を言葉にしたものが多い。特に強烈なのは、「臭いものにはフタをしろ!!」だ。
 〈ある日突然知らない男が 私を呼びとめて〉という一節から始まるこの歌には、ひとりの女性にロックン・ロールを語る男性が登場する。歌詞を読むかぎり、男性は端からコイツはロックン・ロールを知らないだろうと決めつけ、女性に話しかけている。しかし、このナメきった態度は瞬く間に崩壊する。女性は男性をおじさん呼ばわりして、鋭い反論を繰りだすのだ。最終的におじさんの話は木っ端みじんにされ、女性のほうがおじさんよりもロックン・ロールを理解していたという実に痛快なオチである。曲中のおじさんの行為は、いわゆるマンスプレイニングだ。マンスプレイニングという言葉は、性差別といった女性のほうがより深く理解しているであろうことに上から目線で男性が話すとき、あるいは相手が自分よりも知識を持っていると知らずに、知識をひけらかそうとすることに対して用いられる。この定義は、女性を見下しながら偉そうにロックン・ロールを語る曲中のおじさんにピタリとあてはまる。

 こうした愚かな男性は、森高の代表曲“私がオバさんになっても”にも出てくる。この曲は浮気性な男性と付きあう(あるいは結婚している)女性の視点から歌われるが、〈女ざかりは19だとあなたがいったのよ〉といった一節があることから察するに、曲中の男性は若さこそ女性の価値だと信じている。それを知る女性は、男性が他の若い女性と浮気することを心配し、歳を重ねることへの不安も匂わせる。だが一方で、〈私がオバさんになったらあなたはオジさんよ かっこいいことばかりいってもお腹がでてくるのよ〉とも歌われ、女性の価値が若さで計られることへの不満もあるのがうかがえる。この点をふまえると、“私がオバさんになっても”は、エイジズム(年齢差別)に抑圧された女性を描いた歌としても聴けるだろう。アン・ハサウェイを筆頭に、近年は女性が受けるエイジズムを語る者も増えてきたが、そういう意味ではいまこそ聴いてほしい曲だ。

 女性というだけで遭遇する理不尽への怒りを表してきた森高だが、〈なんだかんだいっても女の子 弱いのよ〉(「ユルセナイ」)など、現在の価値観から見れば古い女性らしさもうかがえる。しかし、これまで森高が書いてきた歌詞を読むと、そうした古さを乗り越えようとするひとりの女性も見えてくる。それを長年メジャーで表現しつづけ、いまも第一線で活躍しているその姿は、フェミニズムの観点からも評価できるところが多いだろう。力関係の弱さを利用する痴漢への怒りが込められた“のぞかないで”でも、次のように歌っているのだから。
〈立場利用して弱い者いじめは卑怯者だわ インテリぶってそんなことするのがほんとのワルだわ〉
〈のぞかせないわ意地でも 死んでもおまえだけには 女の気持ち踏みにじって あやまれ〉

先達者が生んだ安室奈美恵、倖田來未ブーム


 日の音楽とフェミニズムを考えるうえでは、『魔女コンサート』も無視できない。1970年代に3回おこなわれたそれは、「女による、女のコンサート」という言葉を掲げていた。安田南や中山千夏といった出演者だけでなく、小池一子や朝倉摂など裏方にも多くの女性を起用している。いまで言えば音楽フェスみたいなものだ。

 このイベントの重要性は、1970年代の日本の音楽界を知れば理解できるかもしれない。当時はウーマン・リブという女性解放運動の全盛だったが、音楽界ではいま以上に女性蔑視が蔓延っていた。とりわけ目を引くのは、『ニューミュージック・マガジン』(現 : ミュージック・マガジン)1973年3月号に掲載された、「女にとってのロック」という特集だ。女性の読者から反発の投書もあったそれは、特集内の男性2人による対談が「女性蔑視と安手の女性観で貫かれていてヘドがでる」と、ミニコミ誌『女から女たちへ』に寄せられた「ロックは男のもの?」で酷評されている。

 国語学者の寿岳章子による『日本語と女』も、当時の状況を興味深いデータと共に示している。この本には、「うたの中の女」という章がある。流行歌で描かれる女性像を学生たちと分析し、受動的でひ弱な女性ばかりが登場することを指摘したものだ。その分析結果を受け、寿岳はこう結論づけた。

「もはや、私たちは歌謡曲の中の女のあれこれに堪能した。歌謡曲、演歌、フォーク、すべて同一パタンの繰り返し。そしてそれはあまりに貧困な偏った女性像しかなかった」

 『日本語と女』の出版が1979年であることを考えると、対象となった流行歌には1970年代の作品も多く含まれていると思われる。このことからも、当時の音楽シーンにおける女性へのステレオタイプは酷かったと推察できるだろう。これらのさまざまな事例をふまえれば、女性たちの主体性を伴って運営された『魔女コンサート』がいかに革新的だったか、わかるというものだ。

 日本の音楽界にも女性像を塗りかえてきた先達はいる。その者たちが積みあげてきた努力も、現在の日本における音楽とフェミニズムの交差に少なからず影響をあたえていることは、もっと知られるべきだ。これらの試行錯誤がなければ、多くの同性から支持されアムラーブームを巻き起こした安室奈美恵や、〈今の世の中は男も女も関係ない 今は女が強いんだから〉(「cherry girl」)と歌う倖田來未など、女性たちをエンパワーメントできるアーティストもいまほど目立たなかったかもしれない。蒔かぬ種は生えぬのだ。

時代を変える音楽は生まれるか


 最後に、筆者が想像する未来を述べたい。冒頭でも書いたように、CHAIは戦うことに否定的だ。ところが、今年2月にリリースされたセカンド・アルバム『PUNK』は、その姿勢が変化しているのでは?と思わせる。収録曲を聴いてみると、〈誰の好みも聞く耳はないわ〉(「ファッショニスタ」)、〈わたしは黙らない!〉(「Feel the BEAT」)といった、前作『PINK』と比較して少々強めの語気が多いのだ。もしかすると、フェミニズムの観点で聴かれがちなことに、少なからず影響を受けているのかもしれない。海外の反応や記事を受けとめていると思わせるユナとユウキの発言もある。i-Dのサイトでは、「patriarchy(家父長制)」という言葉も登場するCHAIの記事を読めるが、そうした解釈もフィードバックしているのではないか。

 CHAIの変化は、日本の音楽とフェミニズムの交差において、怒りやファイティング・ポーズへの抵抗感が薄れつつあることを感じさせる。より明確な主張を紡ぎ、それを音楽として表現する姿勢。この姿勢がもっと広がれば、日本からも時代を反映した音楽にとどまらない、時代を変える音楽が生まれるだろう。

参考文献

Andi Zeisler『Feminism and Pop Culture』2008 Seal Press
上谷香陽『フェミニズムとガール・カルチャー(Girl Culture) 雑誌 Sassy の語り方』2012
上野千鶴子 小倉千加子『ザ・フェミニズム』2002 筑摩書房
小倉千加子『増補版 松田聖子論』2012 朝日新聞出版
『女・エロス』No.7 1976 社会評論社
『女から女たちへ』No.8 1973 「ロックは男のもの?」(収録 : 溝口明代 佐伯洋子 三木草子 編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅱ』1994 松香堂書店)
Kara Jesella Marisa Meltzer『How Sassy Changed My Life: A Love Letter to the Greatest Teen Magazine of All Time』2007 Farrar, Straus and Giroux
北村紗衣『男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか マンスプレイニングという言葉の持つ力』2018 現代新書
栗原葉子『歌の中の母親像 瞼の母からわがママ冬子へ』(収録 : 編集・井上輝子 江原由美子 上野千鶴子 編集協力・天野正子『日本のフェミニズム 7 表現とメディア』1995 岩波書店)
古茂田信男 島田芳文 矢沢保 横沢千秋 編『日本流行歌史 上』1994 社会思想社
古茂田信男 島田芳文 矢沢保 横沢千秋 編『日本流行歌史 中』1994 社会思想社
古茂田信男 島田芳文 矢沢保 横沢千秋 編『日本流行歌史 下』1994 社会思想社
寿岳章子『日本語と女』1979 岩波書店
Joanne Hollows Rachel Moseley 編『Feminism in Popular Culture』2005 Berg Publishers
舌津智之『強制的異性愛の彼岸 : 七〇年代流行歌とジェンダーの政治学』2000
舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』2002 晶文社
中村桃子『ことばとフェミニズム』1995 勁草書房
『ニュー・ミュージック・マガジン』1973年3月号 ニューミュージック マガジン
『「魔女コンサート」アッピール』(収録 : 溝口明代 佐伯洋子 三木草子 編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅱ』1994 松香堂書店)
溝口明代 佐伯洋子 三木草子 編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅱ』1994 松香堂書店
よみうりテレビ『LIVE MONSTER(ゲスト : 森高千里)』2014年9月28日放送分

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