映画『スペース・スウィーパーズ』は、下で生きることを強いられた者たちの連帯が輝く


スペース・スウィーパーズ


 『スペース・スウィーパーズ』は韓国のスペースオペラ映画だ。地球が荒廃した2092年の世界を舞台に、宇宙のゴミを収集する宇宙船、勝利号のクルーが活躍する様を描いている。
 監督は、『私のオオカミ少年』(2012)や『探偵ホン・ギルドン 消えた村』(2016)などで知られるチョ・ソンヒ。主演はソン・ジュンギとキム・テリが務めた。
 本来は2020年に韓国で封切りを迎える予定だったが、新型コロナの影響で公開は延期。最終的には映画館での公開を断念し、2021年2月5日にネットフリックスでの配信という形でリリースとなった。

 人型のロボットであるドロシー(パク・イェリン)を発見したことで、物語が大きく動きだす本作は、これまで作られてきたSF系映画の要素を多く見いだせる。忙しないカメラワークや戦闘シーンの数々は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ(2014〜)を想起させ、悪役サリヴァン(リチャード・アーミティッジ)の差別的なエリート主義や選別思想は、アンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』(1997)でも見られた要素だ。
 そういう意味では既視感を覚える側面が目立つ作品で、興味深いと思えない者もいるだろう。

 しかし筆者は、本作に感心させられた。確かに過去のさまざまなSF系映画を連想させるが、それらを丁寧にアップデートしたうえで、より進歩的な表現に踏みこんでいるからだ。
 たとえば、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズと本作は、世界から逸脱したアウトローたちが社会的弱者に寄り添う点が共通項と言える。ただ、前者はそれをスター・ロード(クリス・プラット)という白人男性を中心に置いて描いたのに対し、後者は韓国人女性で勝利号の船長を務めるチャン(キム・テリ)が中心にいる。

 そのチャンの描写は、映画史における東アジア系の描かれ方をふまえると、見逃せない点が多い。
 村上由見子の『イエロー・フェイス―ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』(1993)などが示すように、東アジア系のキャラクターは偏見に塗れた人物像が作られがちだ。代表例として挙げられるのは、人々の脅威となる“イエロー・ペリル”、冷酷かつ攻撃的性格が強い“ドラゴン・レディー”、男性に従順で寡黙な“ゲイシャ・ガール(あるいは“チャイナ・ドール”)”といったものだ。以前と比較すれば改善されたとはいえ、この傾向は現在も残っており、それに対して抗議する動きも少なくない。
 そうした背景をふまえ、チャンを観察してみる。すると、従来の東アジア系キャラクターに嵌まらない人物像であることに気づくはずだ。人々の脅威になるどころか地球を救う人物であり、宇宙で働く男性労働者たちからは一目置かれている。海賊行為も辞さないアウトローでありながら、随所で見られる情の厚さは、冷酷かつ攻撃的性格とは程遠い。

 素早い論理的思考を可能にする知性もチャンの特徴だ。ドロシーを見つけたときも、勝利号のクルーが混乱するなか、チャンは迅速かつ的確な判断でその場を取り仕切る。
 この姿は、『科学の女性差別とたたかう: 脳科学から人類の進化史まで』(2019)でアンジェラ・サイニーなどが批判した、女は感情的という未だよく見られる偏見を豪速球で打ちやぶる。

 本作は、“セックス”や“ジェンダー”のみならず、“人種”の視点から観ても先進的側面が強い。とりわけ“人種”の視点は、リチャード・アーミティッジを筆頭に韓国人以外のキャストも多く登場するため、他の韓国映画と比べても際立っている。
 韓国のポップ・カルチャーは世界的人気を集めるようになり、韓国人やマニアの間だけで消費されるものではなくなった。この現状が後押しとなって、韓国以外の視点から観ても感情移入できたり、先進的と感じる描写が自然と多くなったのではないか。

 強いて言えば、劇中で見られる苛烈な経済格差や“上と下”という社会構造、さらにはそれらが生みだした労働者の苦境には、韓国の状況が色濃く滲んでいる。実際、韓国では厳しい経済格差が問題になっており、過重労働に晒された者が亡くなったケースも後を絶たない。
 だが、それも韓国だけの現象とは言えない。本稿を読み終えてから、周りを見渡してほしい。ここ日本も、韓国と似た状況なのがわかるはずだ。

 下で生きることを強いられた者たちが連帯する『スペース・スウィーパーズ』は、日本に生きる多くの人々にも光をあたえてくれる。




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