映画『この茫漠たる荒野で』が見逃したもの


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 『この茫漠たる荒野で』は、2020年に公開されたアメリカの西部劇映画。監督には『ブラディ・サンデー』(2002)などで知られるポール・グリーングラスを迎え、主演はトム・ハンクスが務めている。アメリカ以外の国々では、2021年2月10日からネットフリックスで観られるようになった。

 本作は1870年のアメリカを舞台に、ニュースの読みきかせで日銭を稼ぐ退役軍人のジェファーソン・カイル・キッド(トム・ハンクス)と、キッドが保護した白人の少女ジョハンナ(ヘレナ・ゼンゲル)による過酷な旅を描いている。
 物語は、ある日キッドがひっくり返った荷馬車を見つけたところから動きはじめる。荷馬車の中を覗くと、ネイティヴ・アメリカンの衣服を纏ったジョハンナがいた。
 ジョハンナのことを巡回中の軍人に相談したキッドは、軍の検問所へ行けば親族に引きわたす手はずを整えてくれるだろうと告げられ、ジョハンナと共に検問所へ向かう。無事到着した2人だったが、そこで責任者は出張のためしばらく帰ってこないと言われてしまう。仕方なくキッドは、ジョハンナを親族のもとに返すため、長い旅に出るのだった。

 そうした物語は西部劇作品でよく見かけるもので、飛びぬけたところはない。驚かされる展開もなく、淡々と話が積みあげられていく。
 それは映像面も同じだ。画面の揺れを活かすことで、物語の緊張感を生む手法はポール・グリーングラスの十八番であり、カット割りの多さにも手グセが表れている。この点は作家性と言えるおもしろさがある一方で、進歩や新たな試みといったチャレンジ精神は皆無だ。とはいえ、映画としての質は高く、手堅い作りが安心して楽しめる側面をもたらしているのも確かだ。

 本作は歴史を題材にした作品でありながら、いまのアメリカと共振するシーンが多い。経済格差や政治観の違いを滲ませた場面が目立つところは、それこそ分断が叫ばれて久しいアメリカも含めた現在の世情を容易に見いだせる。制作時期をふまえると偶然だと思うが、ジョー・バイデンがアメリカ大統領就任演説で何度も強調した〈結束〉と似たメッセージも飛びだす。

 このメッセージを強調するように、キッドとジョハンナの関係性もモダンな価値観を示す。たとえばキッドは、ジョハンナと性的関係を持ったんだろ?と絡んでくる荒くれ者たちを叱りとばすような男だ。その荒くれ者たちがしつこく追いかけてきたときも、危険を冒して見事に退治する。
 ジョハンナと対等に接するのもキッドの特徴だ。カイオワ語しか喋れないジョハンナに英語を喋るよう強要せず、もっとカイオワ語を教えてくれとお願いする。さらに、ネイティヴ・アメリカンの衣服を脱がせられ不機嫌なジョハンナには、〈何を着ても構わない(Makes no matter to me what you wear.)〉と言う。
 劇中で描かれるキッドの人物像は、いまのアメリカが求める理想のアメリカ人像と言えるだろう。他文化の言葉や慣習が抜けない他者を尊重し、そのうえで共に歩むという生き方。この姿は、バイデンのアメリカ大統領就任演説にも出てくる、〈分断ではなく結束を(Of unity not division,)〉という言葉と奇しくも重なる。

 《男らしさ》の観点から見ても、キッドの人物像は実に興味深い。森高千里の“臭いものにはフタをしろ!!”(1990)には、女性にロックン・ロールを説法するマンス・プレイニングな男が出てくるが、そうした真似をキッドはしない。少女のジョハンナが相手であっても教えてくれとお願いすることができ、自らの過ちを素直に認める度量もある。
 『レオン』(1994)などこれまで多くの映像作品で描かれてきた、男性が無知な女性を導くという男性優位社会に基づいた関係性、いわゆるBorn Sexy Yesterday的なものとは程遠いのがキッドとジョハンナの繋がりだ。歴史ものでありながら、このような現代的感性を違和感なく物語に組みこんだ上手さは高く評価できる。

 だが、本作の姿勢は非常に引っかかる部分もある。特に見逃せないのは、そう生きるしかなかった者たちへの冷淡な眼差しだ。
 本作にはファーリー(トーマス・フランシス・マーフィー)というキャラクターが登場する。ファーリーは独裁的手法で町を取りしきる男だ。多くの黒人を奴隷としてこき使い、労働者から搾取している。
 キッドは、ファーリーから自分のニュースが載ったイーラス新聞を読みきかせるよう依頼される。しかし、キッドは民族浄化の姿勢が鮮明なイーラス新聞の誌面を見て、ファーリーの要望に応えないと決意する。代わりに、搾取しつづける権力者に反抗した者たちのニュースを読みきかせた。このことに怒ったファーリーは、キッドを始末しようとする。

 最終的にファーリーはジョハンナに倒される。しかし、倒されるまでの流れに、筆者はいくばくかの違和感を覚えた。キッドと対峙した際、ファーリーは自らの厳しい人生を語る。〈あんたにわしらの苦労が分かるか メキシコ人 黒人 インディアン 油断すれば奴らに喉をかっ切られる(You got no idea what we deal with down here. Mexicans,Blacks,Indians. Give them an inch,and every one'll slit your throat where you piss)〉と。
 このファーリーの言葉は、南北戦争という個人ではどうしようもない歴史の強大な力が生んだ、負の遺産と言える。筆者はファーリーの独裁的思考にはまったく賛同できないし、人種差別や労働者搾取にも唾を吐きすて中指を突きたてるタイプの人間だ。それでも、ファーリーのような人を生んでしまった暗部は深く掘りさげられてもよかったのでは?と思う。ファーリー的価値観を一方的に切りすてるのは簡単だし、気持ちがいいかもしれない。だが、その価値観が生まれてしまう本質を見つめることなくして、団結や他者との共生を実現させるのは難しいだろう。

 ファーリーの言葉を受けて、キッドは〈もう戦争は終わった(The war is over)〉と返す。確かにその通りだ。しかし、私たちが住む世界では、いまも差別や搾取が横行し、そのせいで多くの命が失われている。理想をより広く伝えるためにも、こうした光景を作りあげてしまう構造と向きあう視座はもっとあってもよかったと感じる。この視座が濃い映画『ブラックパンサー』(2018)やドラマ『スタートレック:ディスカバリー』(2017〜)といった作品を観た後だと、なおさらだ。



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