映画『エマ、愛の罠』はステレオタイプな性役割を焼きはらう


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 燃える信号機と、火炎放射器を手にするエマ。チリの映画監督パブロ・ララインの最新作『エマ、愛の罠』は、観客の目を引きつけるシーンばかりだ。多彩な色使いに明暗を上手く使いわけた照明など、“おもしろい絵”を作りあげる技法は匠の域に達している。

 物語は、エマ(マリアーナ・ディ・ジローラモ)とその夫・ガストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)が中心だ。2人は養子を迎えいれるが、とある事件せいで子供は施設に引きとられてしまう。その後もエマは仕事を失うなど不運が続き、夫婦関係も壊れていく。
 こうした状況のなか、エマはひとつの計画を練りあげ、実行に移す。目的達成に向けたエマの行動は奔放を極めるが、それは明確な意図があってのことだった。

 本作は、“エマの行動の理由”を追う作品だ。男女問わず次々と誘惑し、深い関係を築くエマの思考には驚かされるばかりで、片時も目が離せない。
 とはいえ、奔放な行動の奥底にある感情はズバリ“愛”だ。大切なものを奪われたから取りかえす。そういう意味では、奇抜な映像表現やストーリー展開とは裏腹に、描かれる想いは多くの人にとって親しみやすいものではないだろうか。エマの場合、“愛”を叶えるための方法が一般的とされていなかったにすぎない。

 エマを見ていて、筆者はSF映画『Womb(邦題 : 愛を複製する女)』(2010)を連想した。『Womb』の物語は、レベッカ(エヴァ・グリーン)が最愛の人であるトミー(マット・スミス)を亡くすところから大きく動きだす。哀しみのあまり、レベッカは最先端技術を用いて、自らの体内にトミーのクローンを宿し、出産しようと試みる。そうすれば、ふたたび最愛の人と会えるからだ。
 無事トミーのクローンを産んだレベッカは、多大な愛情を注ぎながら子育てに勤しむ。やがて、トミーのクローンはトミーが亡くなった時の年齢にまで成長する。もちろん容姿はトミーと瓜二つだ。それを見てレベッカも驚きを隠せない。
 こうしてレベッカは、トミーと再会を果たした。しかし、関係性は以前のようにはいかなかった。トミーのクローンにとって、レベッカは恋人ではなく母親だからだ。そのことが原因で、レベッカとトミーのクローンの関係に亀裂が生じるのだった。

 エマとレベッカは、大切な人に対する執着心が尋常ではなく、願いを叶えるためなら他人の目など気にしないところが共通点と言える。社会的規範や世間体など端から気にしていない。
 そのような姿は、女性性を考えるうえで興味深いものとなっている。エマとレベッカは自身の欲望に忠実だ。目的のためにすべてを自分で決断し、女体の機能も自らの意志で利用する。誰にも縛られず、指示もされない。これらの側面は奇しくも、男性中心主義の社会構造がいまだ蔓延る現在への痛烈な一撃としても解釈できる余地を示す。

 この余地を本作はさまざまな形で提示してくれる。エマのジェンダーレスなファッションと佇まいはもちろん、そんなエマに翻弄されるガストンも“男らしさ”について観客に考えさせる立ち居振る舞いが際立つ。
 エマの火炎放射器から放たれる炎は、私たちが生きる現実社会の病巣と抑圧も焼きはらう。



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