人々の不安や哀しみに寄り添うLoyle Carner『Hugo』の誠実な言葉


Loyle Carner『Hugo』のジャケット


 UKラップ・シーンにおいて、ロイル・カーナーというラッパーは独特な立ち位置を保ってきたと言える。サウス・ロンドンのランベスで生まれたカーナーは、グライムやUSヒップホップの影響下にありながら、それらの音楽とは毛色が異なるサウンドを作品では鳴らしているからだ。他のUKラッパーがアフロスウィングやUKドリルを定石とするなか、ジャズ、ゴスペル、ソウル、ファンクといった要素が濃い方向性を突きつめ、孤高的存在感を放ってきた。
 庶民の視点を忘れない歌詞も、カーナーの音楽を特別なものにしている。2014年の“The Money”を筆頭に、文化資本や権威に恵まれない労働者階級の大変さをたびたびラップしてきたのがカーナーだ。必要とあれば政治家を批判し、女性差別主義者の観客を追いだすなど、カーナーはいつも抑圧される側を思いやってきた。

 そうした良い人のカーナーがサード・アルバム『Hugo』をリリースした。本作は、自らのダークサイドもふまえた内観的アルバムと評せる。黒人の父親と白人の母親の間に生まれたことで抱えた葛藤、実父がほとんど不在だった人生に対する憎しみといった個人的事柄を多く取りあげている。
 これまであまり表現してこなかった感情をテーマに掲げたのは、子どもが生まれ父親になったことなど、カーナーに多くの変化があったのも少なからず影響していると思う。より丁寧かつ冷徹な言葉選びが光り、自分の子どもも含めた未来にどんな曲を残せるのか考えたような思索が目立つのも、社会的立場が変わったひとりの大人として出来ることを考えたからだろう。ゆえに本作は実父との複雑な関係を語り、その関係の中で抱いたダークな情動も振りかえりつつ、最終的には許すというセラピー的な物語になっている。

 そういった作品のため、喜びや楽しさだけでなく、不安や恐怖といった感情も随所で飛びだす。この作風はおそらく、あえて祝福を前面に出すことで、抑圧されてきた人たちに自信をもたらそうとしたビヨンセの『Renaissance』(2022)が大ヒットする現在の世情にはそぐわないものだ。それでもカーナーは、そんな世情になびく残酷な消費者の立ち居振る舞いに傷つくであろう人々のそばにいる。世情や流行りとは関係ないところで、日々戦いを強いられている人たちと共にあることを選んだのだ。この選択には、UKラップ界の人気者となり、批評面でも商業面でも成功を収めた自分の影響力をふまえ、どのような言葉を紡ぐか考慮した誠実なカーナーの姿が滲んでいる。

 このような誠実さの影響か、本作でのカーナーは逡巡も見せる。差別や抑圧への怒りを明確にする一方で、歪な社会構造のせいで暗闇を這うしかなかった者たちには、哀愁に満ちた眼差しが向けられている。悪いことだから断罪するという短絡的姿勢がほとんど見られず、まずは物事を理解しようと努める聡明さが際立つ。
 それが特に顕著なのが“Blood On My Nikes”だ。いまイギリスで社会問題となっているナイフクライムを取りあげたこの曲は、アクティヴィストのアシアン・アケージによるスピーチを引用する形で、犯罪が起きる要因となっている貧困や不平等といった問題を解消しようと訴える。〈無関心より思いやり 緊縮財政より平等を(Compassion over indifference, equality over austerity)〉というアケージの語りは、筆者を含めたイギリス以外の国々に住む人たちにも届くはずだ。

 そうしたアンビバレントとも形容できる姿勢はサウンドにも表れている。リチャード・スペイヴン、モーガン・シンプソン(ブラック・ミディ)、マッドリブ、ジョーダン・ラケイ、クウェズ、アルファ・ミストらと作りあげた曲群は、ジャズを下地にした妖艶で心地よいグルーヴが印象的だ。しかし、グルーヴが纏う音は、哀しみや切なさでいっぱいのマイナーコードが目立つ。こういったいくつもの機微が詰まったサウンドはビタースウィートな心情を漂わせており、簡単には言いあらわせない複雑な想いを描ききっている。喜びと破壊のどちらにも傾くことなく、むしろそれらをすべて内包しているのが自分であると認めるカーナーの心はとても凛々しく、多くの庶民が共鳴可能なリアリティーがある。

 『Hugo』は、ロイル・カーナーが人としても表現者としてもさらなる悟りを開いたと示す傑作だ。



この記事が参加している募集

買ってよかったもの

サポートよろしくお願いいたします。