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彼女との出会いが、将来僕をフォトグラファーへと導く

フォトグラファーへの道のり Vol.oo3

<私は未来のフォトグラファーを応援致します>
フォトグラファー Masayaです。
カメラ歴30年余り。現在でも現役のフォトグラファーとして活躍している「フォトグラファー Masaya」が、未来のフォトグラファーを応援するため、私の経験を面白く感動的に書きながら発信して行きます。

さて今日は、農協へと就職した僕の仕事内容や、就職先で出会った彼女との話。そして彼女との出会いが、将来フォトグラファーへと導いてくれるキッカケとなる話を書いて行きます。

では、Vol.003が始まります。

農協で配属された部署は「企画部電算課」

僕は、初めて正社員として仕事に就いた。今までも学生時代に色々なアルバイト経験はあったが、正社員雇用というのは初めてだ。
何より、うれしいことに、8時45分出社の17時15分あがり。とんでも無く健全な会社(部署)であった。

それもそのはず、僕が配属された企画部電算課には当時、課長、課長代理、係長がいたのだが、その課長代理が労働組合の組合長をしており、勤務時間にはめっぽう厳しかった。

忙しく仕事が終わっていない時でも、17時になるとバックアップを取り!大きいコンピューターからドンドン電源を落としていく。

ほとんどの方は見たことが無いだろうが、70cmから80cmもある大きな磁気テープ(カセットテープの大きい番)にバックアップを取って行くのだ。
そして、17時15分。
僕たちは、定年間近の課長だけを残して僕たちは帰って行った。

こんな感じだっただろうか?

こんな斬新な機械を操る企画部電算課は農協内でも花形の部署だった。
自慢でも無いが、僕もSE(システムエンジニア)として鍛えられたのだ。

また、定年間近の課長を除く課長代理、係長、そして僕が男前だったから、モテないはずが無かった。
というか、妻がいるのに課長代理と係長は僕を餌にして女の子と遊びまくっていた。

「やっと、この部署にも若い元気な奴が入ってきましたねぇ。いやぁ久しぶりに、大いに遊んでみるか」
今でもそんな声が聞こえそうになるくらい、僕は上司達から可愛がられた。
いつも遊びに行く時には、当然のように女の子達が着いてきた。僕を餌に。
でも当然一番人気者だったのは、彼女もいないし独身の僕だった。

そんな楽しい遊びをしていると、当然寄ってくる女の子もいる。
寄ってきた中で一番可愛い子を、僕は彼女に選んだ。
目はパッチリしていて、背は低いのに何故か色気を感じる。

農協でできた初めての彼女だった。
人生では、二人目。

二人でいると、本当に楽しいのに・・・
何かを感じる。寂しそうな一面を。

彼女の隠し事

彼女は、僕よりちょうど5才年下だ。
僕の年齢を考えると彼女は18か、もしくは19才だろう。
会っているといつも可愛らしく、笑顔が素敵な子で「温子」という名前からいつも「あっちゃん」「あっちゃん」と親しく読んでいた。

付き合いだして、1年ももたたない頃だろうか。
いつも元気で笑顔たっぷりの彼女だが今日はいつもと違う。
一緒にコーヒーを飲んでいても元気がない。

なんか悪いことしたかなぁ。
違う女の子と遊びに行ったのがバレた??
いや、あの時は、課長代理も係長もいたから大丈夫のはず・・

そして、あっちゃんの口から小さな声が聞こえてきた。
「私、入院するの。来週から」
当然僕は、とっさに「どこか具合でも悪いの?」と聞き直す。

「いつ退院できるかわからない」
あっちゃんは、パッチリした大きな目に涙をいっぱい溜めながら、
「ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も何度も謝ってきた。

全く現状を理解できない僕は、ただただ
「何があったの」と言うしかなかった。
でも何も答えてくれなかった。

数日後言葉通り、あっちゃんは入院した。
それも、大阪の大きな大学病院に入院したのだ。

僕は、入院の原因を知らされていなかった事もあり、すぐにお見舞いに行くことにした。

あっちゃは、ベットで寝ていてお母さんが僕の相手をしてくれた。

あっちゃんのお母さんとは、何度かご自宅にお邪魔した時に会っていたので、面識はあったがその時は、本当に辛そうな顔をして僕に話しかけてきた。
「よく来てくれたね。遠かったでしょ」
「いいえ、全然大丈夫ですよ」と直ぐに返すと、
「温子に聴こえるとまずいからお外で話しましょ」と廊下へと呼び出された。

隠し事が、明らかになって・・・

廊下に呼び出された僕に、お母さんは重い口調で話始めた。
「温子はね、国が指定している重病患者なの。腸にポリープが出来る病気で、原因もわからなければ治療法もわからないの。そしていつ発症するかも・・・」
「・・・」僕は、何も言えなかった。
「話さない約束だったのだけど、話さないわけにいかないから。でも温子はマサ君と出会って今までで一番楽しかったって」

楽しかったと言う過去形の言葉が妙に気になったが、僕は何も言わずに耳を傾けて続きを黙って聞いている。

「だから余計に、話づらくなってしまって。直ぐに別れようとしたそうだけど・・・」

だから、あの時あんなに謝ったんだ。
それも泣きながら。

それからは、毎日毎日見舞に行っては色々な話をした。
ほとんどは、会社の事ばかりだったが、面白おかしく話を膨らませては楽しく話した。

数日すると、あっちゃんは退院してきた。
まだ、会社への出社は無理だが家で療養することになったそうだ。
それでも、僕は毎晩仕事が終わると家へと通い、色々とアホな話をしながら元気づけた。

あっちゃんは日に日に元気になり、土日の休みには、外へ出かけられるようになった。久しぶりのデートである。
僕は、心の中で
----彼女の病は絶対にストレスからだ----
と思い込み、ストレスが掛からないよう気を遣いながら接した。
そして、もっともっと外で太陽の光を浴びられるきっかけを作ろうと思った。


1993年(平成5年)9月 初代Canon EOS Kissが発売される

デジタル時代の今でも後継機があるCanon EOS Kissシリーズ。
ちょうど今から30年前、初代Canon EOS Kissが発売された。

キヤノン カメラミュージアムより

発売当時は世界最小・最軽量を達成した35mm一眼レフカメラで、手軽に簡単操作で使える一眼レフとして業界初のソフトな名称「Kiss」の名とともに若いお母さんなど広くファミリー層に大ヒッ卜したカメラだ。

当然、このカメラはデレびCMでも広告され、僕の目に止まった。

このカメラがあれば、
あっちゃんを
もっともっと外で太陽の光を浴びさせられる。
そしてもっと元気にすることができる。

と信じて二人で一緒にこのカメラを購入することにした。

写真では、レンズ一本だけだが、
当時ダブルズームレンズキットという
◯カメラ本体と
◯レンズ 2本 28mm-70mmと70mm-300mm
がセットになって販売されていたのだ。

これが、自分で初めて購入した
僕とカメラとの出会いであった。




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