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「老人=自分の未来」を見つめるということ:『教育・医療・政治・介護』を金で買う時代

お年寄りを大切にしようと言う言葉は気持ちが悪い。まるで他人事である。
自分は年を取らないと思っているのだろうか。

昨今の(日本の)「年金制度・介護行政」には呆れ返っている。この50年の社会の変化(グローバルなキャピタリズム)で「家族を見捨てない生き方」は失われた。
家族が「企業・農家・商店」であって、三世代が一つの目的と役割を持って多角的に結びついていた時代は消えた。
このお話は、50年で変化した社会にいかに私達が「適応」しているのかを論じる。

「年金・介護」のなかった時代

年金がなかった時代と言ってもそう昔ではない。江戸時代にはなかった。厳しい身分性があり、その時代は、「家=農家・商店・企業」の単位で
私達は否応なく年を取り体は動かなくなっていく。
体が効かなくならなくとも農作物の不作・天候の不順による飢饉は定期的に襲ってくる。その時に「社会的トリアージュ」は発生する。弱者を殺さねばみな死んでしまうのである。

しかし、私達は、「共に生きる家族」を見放すことは出来なかった。
小さな経済の単位で社会が構成されていた時代はその単位の中で「教育・医療・政治・介護」は維持されていた。
農家、商店、企業が「小さな単位の家族」で経営されていた時代である。
社員が家族であった時代である。

家族の扱いは決して「公平でも平等」でもなかった。能力に準じたものでもなく、「キング(家長:長子相続)」の恣意的なものであった。しかし、同じ釜の飯を食い、自分が困難に陥った時に助けてくれるのが、家族でもあったのである。だから、見捨てることは出来なかった。
シェルターであり、欲望を戒め閉じ込める檻でもあったのである。

いつの頃からか、行政はサービスの臨床で「人と」向き合うことはなくなった。『人と向き合う「汚れ仕事」』は外注化された。格差の上の方にいる連中(自分で仕事と報酬を決められる)は、ゲームのルールを決めて自分たちは傷つかないところにいて高給を喰む。

「教育、医療、介護」は人を相手にする。同じ苦しみを二人として持つことのない「ヒト」を扱える万能のマニュアルはない。

そして、このシステムは、細かいサービスの外注先を作り天下る。格差の方程式の基本である。
このゲームの一番の問題は、トラブルを起こしたところでてっぺんまで責任を問えないことだ。
いくら子供が自殺しても校長は頭下げておしまいである。こういう社会はテロで滅びるほかない。

介護行政の問題点


20年以上介護の仕事に携わっている友人と食事をしていて色々と話を聞けた。介護保険が始まってからおかしくなって来たという。
それ以前は、それなりにコストはかかったが、特色があり融通がきいたという。「介護保険」公平で、マニュアルに従ったサービスであることが要求される。そこに問題がある。ヒトはマニュアルでは扱えない。
学校教育に関しての問題と同根であろ。

行政は、市民が望むものを提供して、その手数料を給料とする。つまり、クレームは許されないのだ。

認知症を病気のように扱っているが、年を取ることは病気ではない。誰にでもでも起こるアタリマエのことである。
しかし、関節が痛かったり記憶があやふやになったり、物忘れがどくなったり、多くの苦しみが伴う。そして医者は、その苦痛を直さないでごまかす事のできるよく効く薬を処方する。

食事が原因で起こるというのが僕の仮説である。身体は、目的を持って作られている機械ではない。環境に適応して形を変える鵺のような存在である。
幼い頃から、残骸のように扱われる老人になるまで変わり続けるのだ。それぞれの居場所によって異なったメタモルフォーゼを繰り返して新たな環境へて適応する。
そして、終着点で、そのコロニーからDNAを積んだマイクロバイオームは世界に拡散して、得たものを食元連鎖という大きな流れに付け加えるのだ。
死は、コロニーたちにとっては大きな悲しみかもしれないが、その生のうちに得たものを生命の潮流にフィードバックするのだ。

映画の世界でも、この問題は取り上げられることが多い。
僕はみていないのだが「Plan75」というのは秀逸なようである。

ソイレント・グリーンは僕の大好きな60’SFの傑作であろう。作られた当時の未来である2022年の世界を描いている。しかし、今は2022年、現実の方が一歩上である。

そして結論は

食事でピンコロの人生の終わり迎えたい。
下の始末は自分でできて、自分が誰かを忘れることなく、人様に迷惑をかけず。ささやかな人生の思い出を部屋に置き、かつての失敗を懐かしく思い出し、驕っていた自分を恥じて庭の四季を楽しみたい。
誰かに迷惑をかけることなく、あたわったものを有り難くいただき、自分で食事を作り、自分の口で食べることができなくなったら、もはや寿命である。

医者に行くことなく、年老いていくことを恐れず、ある日眠ったまま起きることのない朝を迎えたい。

僕は母の臨終をいつも思い出す。老人の介護はとても貴重な機会である。自分にやってくる道を教えてくれる。

石阪啓さんの著作「安穏族:その29 その後のE.T.」より。1985年の発行であるが見事に世界を描いている。20代の頃青年誌で連載している時に大きく影響を受けた。そのうち「石坂啓」さんについてはジックリと語りたい。この本を読む度にグシょ泣きになる。

#石阪啓
#安穏族
#その後のE .T.」

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。