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日々の雑感 -映画”Plan75"を見て-

はじめに

 2022年6月25日のニューヨークタイムズに”Imaging Life Ending Voluntarily at 75"という早川千絵監督作品”Plan 75”に関する記事があった。"Plan 75”は第75回カンヌ映画祭「ある視点」部門で新人映画監督を対象にした「カメラ・ドール」で特別表彰を受賞作なので、欧米系メディアでも記事のネタにはしやすいだろう。とは言え、日本の超高齢化社会に潜む怖さを題材としている映画が海外メディアで記事になったことに私は衝撃を受けた。

 記事では、2016年の「津久井やまゆり園」での知的障がい者への大量殺傷事件において、事件を起こした者が知的障がい者は安楽死させるべきとして犯行に及んだことを踏まえ(※1)、不寛容さが日本国内に蔓延しているとの早川の意見が載っていた。また、"Plan 75"の初期バージョンを見たフリージャーナリスト庄司かおりがPlan75はディストピアではなく、自分たちが現に直面をしている問題と語ったことへの言及もあった。社会にとって「不都合」とされる存在は排除しなければならない、という独善的で排他的な不寛容さが日本社会にあるという現実から目を背けてはいけないという両者の想いを感じ、私は"Plan 75"は時間を作って見ようという想いにかられ、映画館に足を運んだ。

あらすじ(ネタバレ注意)

 "Plan75”は、高齢者を銃で殺害したであろう若者が、高齢者は社会の負担であるとして、淡々と語った後に自らも銃で自殺をするという場面から始まる。その際もテレビドラマなどで使われがちの安っぽい演出の音楽が流れるのではなく、普通にBGMとして使われる音楽が淡々と流れた後、ラジオニュースが始まり、政府が高齢者を襲う若者の暴発防止という名目で75歳以上の高齢者に安楽死を選択できるようにする法案を可決したというところで終わる。

 倍賞千恵子演じる主人公角谷ミチは、夫と離婚をして子どもとも離れ離れとなっているため身寄りがおらず、また年金を十分に受け取っていないためか78歳の高齢にもかかわらずホテルの清掃で働くことで生計を立てている。そんな苦境の中においてもホテルの同年代の同僚と上手く付き合いながら日々生きているのだが、同年代の従業員がホテルで倒れたことからミチは同僚とともに解雇されてしまう。ミチは新たな職を求めていろいろと努力をするが、高齢を理由に次々と断られてしまいミチは安楽死を奨める"Plan 75"を申し込む。

 "Plan 75"を申し込んだ後にミチは若い女性のカウンセラーである成宮と電話で会話をしたり、ボーリングなどで成宮とその友人と一緒に楽しむなど明るい場面もある。ただ、最終的には安楽死のための施設に行く準備のために成宮と最後の電話をする場面など全体としては暗く哀しいものである。成宮は安楽死を思い直すことはいつでもできるということを強調したほか、電話を切った後ももう一度ミチに電話をつなげようと試みるなど、成宮自身も「死」を当然のように推奨する行為にはためらいを感じている所が余計に辛さと哀しさを感じさせられる。(※2)

 ミチは安楽死のための施設で睡眠薬を飲み安楽死のための装置を付けるのだが、最後の最後で装置を外して施設から外の世界に出る。映画は朝の光を浴びるミチがかすれた声で「りんごの木の下で」のサビの部分を歌ったところで終わる。この映画の最後は解釈が分かれるところだろう。施設を出たところで何もかもを失ったミチがこの後生きていけるのかという想いか、それともそれでも生きているということに何か希望があるという意味で朝の光を浴びるということなのか、どちらにもとれる内容である。

"Plan 75"が描く社会的背景及び感想

 "Plan 75"の内容は、高齢者は社会にとって不都合だから排除しなければならないという価値観を前提にしている意味では「現代版楢山節考」の様相もある。高齢者が生産に携わらない社会に「不都合」な存在ということで否定的に扱われているのは露骨な姥捨てである「楢山節考」だけでなく、食糧不足となった近未来において高齢者の社会保障が一切断ち切られる社会を描いた藤子・F・不二雄「定年退食」とも共通する世界観である。

 「楢山節考」、「定年退食」との違いは、"Plan 75”に描かれる安楽死は飽くまでも高齢者自身の意志に基づいて行われるということである。拒否することで当人に不都合が生じることはなく、前述した成宮のセリフにあるように安楽死プランを選んでもいつでも本人の意志でそれを撤回することができることを説明する場面もある。それでも、低所得の高齢者や身寄りのない高齢者が生きること自体への希望を失うことで、「安楽死制度」が死を選ぶしかないという状況に彼らを追い込んでいることには違いない。なお、戦争中の特攻隊志願者は形式上は本人の志願という形を採ってはいたものの、旧日本軍の命を軽視する風潮や日本社会特有の同調圧力の中で、結果として特攻隊を「志願」することを余儀なくされていた。こうした歴史を持つ日本で、そして生活保護を極度に憎悪する風潮のある現在、社会的に立場が苦しい高齢者に安楽死をに追い込む風潮が来ないと果たして言い切れるだろうか。

 "Plan 75”には、安楽死施設で死んだ高齢者の遺品のうち、時計やベルトなど再利用できると思われるものを施設の職員が回収していく場面がある。この場面はナチスドイツが強制収容所に収容された人々のなけなしの荷物を没収したことをイメージさせる。社会に「役に立たない」者はいらないという発想は、同時にいかに「役に立たない者」から搾取するかという発想でもあるということだろう。

 また、行き過ぎた演出ではなく、淡々と日常の延長として残酷で哀しい死を選ばざるを得ないことに追い込まれるということが、却って恐ろしさと哀しさを視聴者に印象付ける。過度に演出されがちなテレビのドラマや娯楽向けの映画とは違う深い映画だと感じた。

 "Plan 75"は下記の映画館で上映中である。ご興味のある人はお時間を見つけて足を運ばれてみてはいかがであろうか。

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 但し、報道によってつくられたイメージとしての事件を起こした者と実際の事件を起こした者とではかけ離れている側面があることに注意をしなければいけない。詳細は以下の記事を参照のこと

(※2) その後、カウンセラーの指導者らしき人物が高齢者が安心して死ぬことができるようにするために、カウンセラーはどうケアをすべきかということをカウンセラー一同に語るシーンが出てくるが、その内容に成宮は複雑な表情を浮かべているシーンが出てくる。


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