「一人で抱え込まないで」という凶悪な悪意:「百年のお裾分け」(2)
介護に苦しんでいると、必ず出てくる言葉が有る。それは「一人で抱え込まないで」と言う言葉である。阿川佐和子さんの小説にも実家の土地を売っぱらいたい弟に言われる言葉である。新聞に連載されていた頃読んでいたものだ。
その言葉は、結局何がいいたいのか
『自分は何も出来ない(しない)が、行政のサービスを使え』ということである。親の気持ちは施設などには入りたくないのに、とっとと入れてしまえという意味なのだ。
悪いことではない、介護する子どもはいっぱいいっぱいになる、些細なことで親と口論になる、仕事もあるからそうにもならない。徘徊が始まるとまさに介護する家の看守となるのだ。それはとても苦しい。妻の両親も長くおばあさんの介護をした。寝たきりであったそうだがたいへんつらい思いをしたと聞く。
共に生きても、施設に入れても、家族は苦しむ。
親が理解できない他人となってしまうのだ。
僕のこと
2015年、父母と和解した。そして母は2016年に亡くなった。その後5年間父の食事を毎日作り共に暮らした。
父はまだ自分が十分同じ様に何でも出きると思って色々なことをしようとする。庭で焚き火はするは、近所の歩道の側の空き地の草刈りをするためにガソリンモーターの草刈り機を借りようとするは、裏の川のゴミを拾おうとするは、いくら頼んでも言うことをきかない。
一度、そんなに僕の言うことが聞けないのなら施設に入ることになるんだよと行ったときの悲しそうな目を忘れられない。僕自身の後悔の一番であった。
草刈りは僕がして、庭の焚き火するような木々は先に集め見えないところに隠した。やがて、父もおとなしくなっていく。2017〜2018年の頃だった。
それでも、小便はたってするので毎日小便器の側の「海」の掃除は僕の日課であった。家に食事に来た時は座ってしてくれるのがせめてもの慰みであった。
妻は、当初、僕の食事作りにも介護にも協力的ではなかった。母が亡くなった時に親族とのトラブルが有り、何度も離婚を話し合った。
壮絶な介護の始まりであった。
和解
やがて、妻が父の介護に積極的になってきた。お風呂で足を洗ってあげたり、髪を切ってあげたり、一緒に干し柿の皮むきをしたりしてくれるようになる。
僕が出張で長く家をあける時(毎年10月には国体の仕事で一週間いない)はご飯を作ってくれた。
確かにウンコのついたフンドシを洗うのは辛い。安い二槽式の洗濯機を買ってガレージに置き、父の洗濯 は僕がすることになった。実家の洗濯機はすでに故障がちであった。
家族の外注化
かつて、介護は三世代の同居の内に行われていた。それなりに大変であったが、自分の未来を見て共に生きようとしたのだ。
見事にそれは消し飛んでしまい。行政は形だけの人々のニーズを組み上げて介護制度を作り、多くの企業に税金を流す仕組みを作った。企業は利を求め原価を絞る。働く人間の時給を削る。それ自身は問題はないのだが、そんな風潮は老人を厄介者として扱う。
かつて家庭が「企業・商店・農家」として機能していた時代は、老人の知恵や老人同士のネットワークは「企業・商店・農家」にとっても意味のあるものだったのである。
しかし、「サラリーマン=パートタイムスレーブ」と言う階層が現れた時、老人は厄介者でしか亡くなったのである。都会に暮らす子どもは戸籍上の家族でしかなくなるのだ。
私達は孤独の内に施設で死ななければならない。いずれ私達が通る道である。
「安穏族」石坂啓さん、ごめん題名忘れた。自分が老人になるということを気がつけと語っています。若い頃読んで驚いたことが忘れられない。
僕はそんな死に方は嫌だ。だから父を最後まで看取った。
僕の愚かさから、父を最後の一ヶ月苦しめたのは未だに苦しい。
今日は、近所の方の家にお裾分けを持っていって心が軽くなった。ご自身の母親を夫婦で介護している方だ。母とも知り合いであった。
「百年のお裾分け」と言う考え方は、介護する家族を助けるものでなければならないと决意している。設計とプラクティスは始まっている。
もう少し時間がかかるが、これから道は見つけていけばいいのだ。
僕はあのころの自分を助けたいのだ。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。