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幸運な病のレシピ:いかにして、材料を腐らせないか?

2015年当時、すべての食事を素材から作り始めた。「材料を余らせてしまう病」「作ったものを捨ててしまう症候群」に随分苦しめられた。

随分もったいないと感じたものだ。売っている材料は量が多すぎるのだ。少しずつ分けて売ってもいるが、単価が高くなるのが気に入らない。

昔はこういうことななかったのだろうかと考える。小さい頃の食卓は米一粒も残さなかったような気がする。最後にお茶碗に白湯をついで焼き魚の頭を入れて泳がせて、骨についた身をはがして少し醤油垂らして飲んだものだ。

あれは作法のひとつなのだろうなあ。懐石などでも何も残さないのがマナーだと聞く。

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しかし、徐々に捨てないで済むようになっていった。

簡単なようで難しいことが出来るようになっていった。腐りそうな物から使っていくのだ。これが実に難しい。冷蔵庫の中でひき肉が腐りそうになっていたらどうするか考えてみるといい。

握って焼くでもハンバーグなのだが、中々そうは考えられない。正統派のメニュー通りの材料がないと出来ないのだ。一回妻がハンバーグをそうやって作っているのを見驚いた。十分美味いのだ。つくね団子と言った方がいいかもしれない(笑)。

簡単そうで難しいと言うのは、私たちの頭はそうできていないのである。この材料はこの材料と同じ料理に使えるとか入れ替えうことが出来るとかわからないのである。

いい例が「麻婆茄子」である、昔は麻婆茄子などというものはなかった。麻婆豆腐の豆腐の代わりに茄子を使うと言う発見が「新しい天体(注)」であったのだ(昔からあったのかなあ、丸美屋さんの発明だろうか)。要するに、ひき肉とネギのソースで何かを煮付けるのだ。

世の中のレシピは何を作るかから始まって材料をリストアップする。

レシピ本やサイトを見ると、行儀よく材料の分量や下ごしらえの方法から書かれている。まるでそれが「正式」で「権威」であり、それ以外は邪道のようである。僕が気に入らないのは、材料は地域や時期によってもっといいものがあるし、それぞれの家庭で『ヒネリ』が面白いということだ。まあ、それはさておいて、おこう。

僕は毎日、料理を作るときに最初に冷蔵庫を見る。何が悪くなりそうかを見るのだ。肉や魚はとにかく悪くなるとあっという間だ。安売りで買ってきたものが前に買ったものを追い越して食べることもある。

一日中頭の中が冷蔵庫で一杯になる。今食べたあとから何を作ろうかと考え始める。奥さんに話を聞くと、「お腹いっぱいなのによくそんな事考えられるね」と言われる。少し見下げた感じがするのはデブだからだろうか。

逆引き料理法と入れ替え可能食品リスト

これは重要だと思う。入れ替え可能な素材というのは同じような特徴を持っている。ぼくの中では「葉物」「茎もの」「根菜」と分かれる。なおかつそこに自分の存在を強調するものと、他人な味を吸うものがいる。合わせた時に強さがでてくる食材と、特定の調味料との組み合わせが良いものも有る。そして美味しいものをつくるためには破ってはいけないルールはない(笑)。

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キャベツや白菜などは先の方は「葉」の扱いだし、元の方は茎の扱いだ。加熱の順番が変わる。空芯菜などは炒める前に茎は茹でた等が美味しい。ナバナはひっそりとしていながら自分お味を強調するが、煮すぎると消えてしまう。豆苗は自己主張の強いおキャンな娘だ。

「シソ・ニンニク・生姜・パセリ・セロリ」は上手く使えばなくてはならないが失敗すると辛いことになる(僕が全部を食べる、毎日食べる)。

何にでも合わせられる青物は役に立つ。味噌汁や汁に最後に放り込めばおひたしにするより効率がいい。ちなみに僕はおひたしは作らない、味噌汁や汁に刻んで最後に放り込む。

キャベツやニラ、玉ねぎ、セロリのように存在を強調する食材もある。これらは気をつけないと料理がそのアジになる。それが嬉しいことも多いが、困った感じになることも多い。

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ロールキャベツとロール白菜

入れ替えると意外と面白いことも多い。ロールキャベツは僕は余り好まないのであった。キャベツの個性が強すぎるのだ。どうも季節によるが、強い香りのキャベツの時は苦手なのだ。

白菜ロールにしたら、これがバッチリと嬉しいのだ。僕はほぼおでんお出しでニルが、クリームやトマトだとキャベツでもいいのかもしれない。

冷凍も活用

これらの料理の困ったところは余ることであろうか。だいたい一回のひき肉の量で12巻作れるのだが、一気に全部を煮てしまうと困ったことになる。何日も残ってしまうのだ。なので巻いたあとで冷凍して取っておくことになる。後に汁を作る時に、2個3個とちまちま入れて十分美味しいことがわかった。野菜だけでは冷凍が厳しいが、ここまで作っておけば嬉しい。

市販の冷凍食品は好まないが、自分で作っておけば嬉しいものである。

入れ替え可能なリストが出来てくると、冷蔵庫から何を作るかを考えていける。「逆引き」である。もちろんいろいろな料理を作る手わざも必要だが、時間をかけて覚えていく他無い。

僕が今毎日続けれれるのも修行したからだ(笑)。昔の動画見てみると』明らかに今の僕と違う手順の場合がある。

メニューの定番を作る

これは、毎日料理をつくけるのに悩まないで作れる定番を決めるのだ。永久献立表のようなものである。これが決まってくると買い物が楽になる。

僕のメニューはかなり決まっている。

週に2−3回は煮しめを作る:季節で内容も切り方も変わる。根菜と鶏肉、練り物、人参(これはずーっと同じ)。煮しめに飽きてきたら、カレーや肉じゃがと入れ替える。いずれも2−3日食べ続けるのだ。

毎朝魚を焼く:これも重要(僕の生活では)である。妻は食べないのだが、僕はもしゃもしゃ食べるのだ。腹が空いてはおやつ代わりにモシャである。ちなみに朝しっかり作っておくと一日が楽だ。朝は弱い人も多いだろうが、とにかく朝頑張ると昼は作らなくともいいことが多い。

夜は汁を作る:この汁というのは、しゃぶしゃぶ肉を食べるためのものだ。白菜をタップリ入れて、しゃぶしゃぶ肉をいれる。白菜が高くなったら青梗菜をいれる。白菜とチンゲン菜は入れ替え可能である。青梗菜の方は一年を通じて同じくらいの値段だ。使い勝手がいいが少し癖がある。

鍋と言ってもいいかもしれないが、この「汁」という「切り札」がでてから夕食のメニューの組み立てが楽になった。味付けは顆粒だしと醤油がメインだ。キャベツの場合は味噌になることが多い。肉は基本的には「豚のしゃぶしゃぶ肉脂身多め」である。脂は満腹になるので好きだ。

揚げ物を週2回はする:これは妻のパートのお弁当に使うためだ。最初は辛かった。揚げ物はとにかく難しい。上手く手順を考えて進めないと効率が悪い。最近ようやく油の扱いがうまくなったが60年かかった(笑)。このときはかなりひどいやけどしている。

やけど

作ったものの仕立直し

もしかしたらこれが一番大事大事かもしれない。別に買ってきたものでもいいのだが、残ってしまったものをどうするかである。一番ラクなのは「卵で閉じる」であろう。

カツや焼き肉のたぐいはこうすることが多い。特に週2回の揚げ物のよく日はこれをする。趣味にも夜が、カツを煮たあとで一回煮汁を外に出してタマゴで閉じるといい。この時は筍を入れている。

なぜかスーパーで買った弁当は、チマっと余ったものをコソッと捨て手も気にならない(笑)。

フードロスというのは恐ろしい。200円で買った弁当の半分捨てても100円落としたとしか考えられない。

食材のロスなどとい言われるが、弁当や商品化された食事を作る過程ではどのくらい捨てられているか計り知れない。外見で騙されてはならない。レストランや居酒屋、食堂での廃棄分はどれだけあるだろうか。

大きな問題であるが、みんなが食事を作るようになれば問題は消えるだろうさ。けど面倒だから出来ないのだ。金ですむものは金で済ませたいというのが『グローバリズムという獣』を育てる餌なのだ。

材料や自分で作ったものは身を切るようである。これは一回飼った犬猫を捨てられなくなるようなものだろうか?白菜や、じゃがいもに情が移るのだろうか(注)。

ミルクパンを4つ買った

煮たもの系は少しだけ余ることが多い。ミルクパンに入れておくと冷蔵庫に保存が出来る。先日のイナダの兜煮などは少し大きめの鍋に入れて取ってある。今日の八宝菜を空いたミルクパンに入れて明日また食べるのだ。

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そして僕は今日も料理を作る。

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僕にとってのレシピとは

単に料理を作る手順ではない。毎日手作りの料理を作ることで身体を守ることなのだ。

私達が苦しんでいる「原因のない病=症状だけの病」は医者には治しようがない。

「病因」が有るのならばそれを何とかする方法もあるのだろうが、「難病や膠原病」「ガンや外因のない臓器の不全」これらは全て食事に原因が有る。

生活習慣病というのは『病因』のない症状を一括して呼ぶ行政用語なのだ。

「食の欧米化」「バランスが悪い」「ビタミン✗☓が足りない」「ミネラルが不足している」「食品添加部r津が悪い」医師はいくらでも警句を並べる。

しかし、言わないことが一つだけある「自宅で料理を作らなくなったからだ」とは言わない。女性差別に当たるそうだ。かつて女性が厨房をになっていた時代はもう過ぎ去ったのだ。

「家」という食事を作るシェルターは男が3世代の生活をできるだけの給料を稼げた時代の幻想である。今や、共働きでくたくたになる。賃金カットは行われる。検査値の異常で薬売りつけられる。嫌な仕事で行きたくなくなったら精神病院で薬盛られる。

作っている時間など無い、20時に半額になる食事を買う外ないではないか。けどね、食事には価値があると僕は信じている。なんとか頑張るだけの価値があると信じている。

この価値はやがて、70−80歳になって初めて分かることだ。できるだけ早くから練習しておいたほうがいい。いずれ一人になってこの現実と向き合わなければならないのだから。

注)新しい天体

開高健さんの小説である。大昔に読んでうろ覚えなのだがいろいろなものを食べ歩く話だった(大雑把すぎ)。そして新しい味を発見することは、天文学者が星を見つけたときのように素晴らしく心躍るものだという話だったと思う。最後は水が一番美味しいという落ちだったような気がする。まあねえ、美味しさなどというものはその時のその人のものでしかない。

僕はここらでいっぱい酒が怖い。

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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。